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滋賀県立大学鄭大聲教授がキムチテーマに退官記念講演

多くの人が参加したキムチ体験教室

 「近江」(現在の滋賀県一帯)といえば「古墳の宝庫で、そのすべてが朝鮮式」(司馬遼太郎「湖西のみち」)というほど、古来から朝鮮とは所縁が深い。そして、江戸時代に対馬藩に仕え、朝鮮との友好に尽くした雨森芳洲が生まれた地でもある。その生家がある滋賀県高月町で、2月28日、鄭大聲滋賀県立大学教授の退官を記念する「キムチ講演会」やキムチ体験教室、懇親会が開かれ、県内外から250人以上の人が参加するにぎわいとなった。

 本紙でも「朝鮮の食を科学する」を連載してきた鄭教授は、発酵学専攻。朝鮮半島の食文化研究やキムチなどの日本伝来、普及過程研究の第一人者でもある。9年前、同大の開学時に教授に就任して以来、食文化論を講義してきた。現在、国立民族学博物館の共同研究員も務め、調査や研究のため、年に数回海外を飛び回る一方、高月町や栗東市の自治体が地域興しの一環で始めたキムチの特産化にも協力を惜しまなかった。

 この日鄭教授は「近江に根づくキムチの文化と将来」とのテーマで講演。「朝鮮通信使の通った道は『キムチの道』でもあった」と語り、通信使をもてなすために日本側が約300年前にキムチを作って饗応した史実に触れた。

 「日本側は通信使の好物を対馬藩を通じて調べ、キムチを作っていた。当時の朝鮮半島ではキムチに唐辛子は使われておらず、日本側はナッパキムチ(水キムチ)でもてなしていた」

 朝鮮半島の漬物を一気に変えたというトウガラシ。塩辛や果物を添加できるのも、トウガラシの辛味成分カプサイシンの酸化作用があるため。トウガラシは16世紀、ポルトガルから日本へ渡来した後朝鮮半島へ伝わり、さらに20世紀に入って、人の移動とともに中央アジアやシベリアなどにも広がった。

 鄭教授は「人の移動に伴って『キムチ(トウガラシ)ロード』と呼べる生活文化圏が伸びていった。健康に良いのは実証済みなので、今後世界的にもっと広がっていくでしょう」と太鼓判を押した。

 日本でのキムチの総消費量は、95年10万トン、98年20万トン、00年32万トンと急増、今やキムチが単品の漬物では断トツの1位(ぬか漬けは00年9万6000トン)に躍り出た。

 こうした背景もあって、鄭教授の協力も得て、高月町は94年から特産品としてキムチ作りの研究を始め、96年に「高月くんのキムチ」を発売。さらに昨年、国と県、町が総費用約4000万円を出資して、同町商工会事業・キムチ加工販売施設「高月ルナハウス」が完成、本格的なキムチの加工販売体制を整えた。また、栗東市の上砥山営農組合、びわ町の「産直びわ みずべの里」なども独自にキムチ作りを手がけている。

 これらの地域興しの指導に当たった県湖北地域農業改良普及センターの松井賢一さんは、「キムチの効能は今や心臓病予防やダイエット、美肌効果にまで及ぶ。食べながら健康を手に入れたいという老若男女の圧倒的な人気を誇っている。鄭教授のご協力を受けながら、ますますおいしいキムチの特産化を県内に広めたい」と抱負を語っていた。

 鄭教授は講演の結びで自身の生い立ちに触れ、「1933年に京都府宇治市で生まれたが、子供の頃『ニンニク臭い』『キムチ臭い』と差別された」体験を語った。

 人が生きるうえで大切このうえない「食べ物」による理不尽な差別で苦しんだが、大学に入学した時に担当教授から「世界中で最も優れた食品こそニンニク」だと教えられ、当時蔑みの対象となっていたニンニクやキムチなどの食文化の研究に目を向けるようになった。

 「現在、拉致問題が日本では大きな問題となっているが、その陰ではもっと大きな人権問題、つまり、植民地時代の強制連行の問題などが未解決のままだ。朝・日国交正常化交渉の過程でこの問題も早期に解決すべきである。そのためにもキムチが朝鮮半島と日本を結ぶ役割を担ってほしい」と鄭教授が述べると、満員の会場から大きな拍手が送られた。

 西川幸治滋賀県立大学学長は「近江で発掘される古代の遺構の中には、オンドル跡など朝鮮文化の精神、生活文化の色濃いものが多い。そのような地域で、現在、生活文化としてのキムチが根づいていることは感慨深い。差別というのは足を踏んだ側は、踏まれた側に比べ鈍感である。日本は島国外交から脱皮し、今後はアジア、朝鮮半島との交流を密にしていくべきである」と語った。

[朝鮮新報 2004.3.4]