〈朝鮮歴史民俗の旅〉 酒と酒道(4) |
酒は百薬の長であるともいわれる。しかし、それはたしなむ程度であればの話で、度が過ぎると禍のもととなる。その極めつけは燕山君治世12年間であった。国王は酒乱となって凶暴を振るい、宰相以下両班士大夫も宴会に明け暮れていた。政治は乱れて国家は秩序を失い、そして庶民は飢えと寒さに苦しんだ。 18世紀の実学者・丁茶山は飲酒の弊害について「茶を飲む民族は栄えるが酒を飲む民族は衰える」と、酒禍亡国論を唱えた。 朝鮮王朝の時代に3つの禁止令があった。1つは牛を殺してはならないこと。2つはむやみに木を切り倒してはならないこと。そして3つ目は酒の売買をしてはならないことである。酒の売買を禁じたのは、穀物の浪費を抑えるという目的もあったが、酒がもたらす弊害から国家、国民を守らなくてはならない、という切実な要求があったからである。 この民族にとって、酒とどう付き合うべきかは、いつの時代にあっても国民的関心事であった。 17世紀の朝鮮に1冊の酒道に関する本が現れた。著者は許均、書名は「燗情録」。許均は当代屈指の文人で小説「洪吉童伝」の作者で知られている。彼は過激な行動が禍して後に反逆罪で処刑されるのだが、無類の酒豪でも知られていた人物である。彼がどうして酒道に関する本を書くに至ったのかは定かでない。中国の書物などを引用しながら書いているところをみると、彼個人の体験だけで書かれたものでない。また、文章のふしぶしに「こうすべきである」とか、「こうすべきでない」と断定的な言葉を使っている。それは酒飲みに対する一種の警告に似たニュアンスを含んでいる。 彼の酒に関する記録は「燗情録」の「傷政編」に収められている。傷政とは酒を治めて正しく飲むという意味である。まさしく酒法、酒道についての記録である。 彼は守るべき飲酒の原則について次のように述べている。 「喜びの酒は節制して飲むべし。心が浮かれれば酒量が増すからである。疲労時の酒は静かに飲むべし。飲むにまかせれば体力が減退するからである。厳かな場所での酒は気を引き締めて飲むべし。気が緩めば放心して雰囲気を壊すことになるからである。乱雑な場所での酒はあらかじめ禁約を決めて飲むべし。約定がなければ酒席が乱れ修羅場となるからである。初対面との酒は静粛に飲むべし。知らない者同士の飲酒は心が通わないので誤解を生むことになるからである。雑客との酒は早めに席を立って退散すべし。身に覚えのない争いに巻き込まれることがあるからだ」 次は良き飲み友達を得るための目安である。 「へつらうことをしない者。言動に片寄りがない者。目配せで自分の失態に気がつく者。高尚な諧謔ができる者。場所にこだわらない者。酒や肴に文句をつけない者。酔っても快く付き合う者。詩を詩で答えられる者」 次は警戒すべき相手である。 「ごう慢な者。へつらう者。人の目を気にする者。言葉に技巧を凝らす者。思慮深さを売り物にする者。酒令(禁約)を犯す者。やたらと口出しする者。中座を試みる者。大声を張り上げて暴言を吐く者。大法螺をまくし立てる者」 次は酒の飲み頃―ベストの飲酒の時期と環境である。 「月が明るく、風がそよぎ、快い雨音を聞き、静かに降る雪を眺める日である。酒つぼに寝かせた酒がほどよく熟成して香しい香りを発する頃である。おいしい酒にあり付きたいと体がそれを求めている頃である。一杯の酒にほろよく酔い、飲むほどに心がなごみ、気持ちよく上気する日である。相手と打ち解けて会話が進み酒の肴がおいしい時である。つまり、自然の理、時節の理にかない、心身ともに健康で無理なく快く飲めること、が肝要であるということである」 次は飲んではならない要件である。 「天候が蒸すように暑く、空気が乾燥し、強風が吹き荒れる日。心と気持ちに空しさがある日。体調が悪くて酒が進まない日。主人と客、飲み相手が互いに神経を使わなくてはならない時。忙しく時間に追われながら飲まなければならない時。わざと笑いを作りおべっかを使いながら飲む時。同席した者たちがあちこちでひそひそ話をしている時。家の帰りを気にしながら飲む時。酒や肴が口に合わない時」 いつの頃からか、朝鮮人には、酒は酔うためのものという意識が根づき、酔いつぶれるまでとことん飲みほす風潮が現れた。たしなむべきものを浴びるほど飲めば、酒に呑まれてこころを奪われ、ついに礼を失して禍を残すのである。愛飲家で酒豪でもあった許均は、同僚の両班・士大夫の風情のない飲み方に辟易して、酒は風流であらねばならないと諭したのであろう。 最後に彼は、酒は澄みとおってやさしい清酒を聖人の酒であると勧める一方で、焼酎は小人が呑む酒であるとけなしている。また、器は玉杯がトップで次が犀角杯(さいかくはい)、陶磁器は並みのものであるからと勧めていない。彼は肴にこだわっている。最上の肴は鮮蛤(ハマグリの刺身)、次に酒蟹(酒蒸しにした蟹)、珍味としては熊白(熊の背肉の脂肪)と河豚の刺身を上げている。(朴禮緒、朝鮮大学校文学歴史学部非常勤講師) [朝鮮新報 2004.3.6] |