〈生涯現役〉 長田の「アカ親分」と親しまれる−金善伊さん |
神戸市長田区の集合住宅で金善伊さんは暮らしている。阪神・淡路大震災の後、下町の住宅密集地域の再開発として建てられた住居である。 「遠いところをわざわざ来てくれてありがとう」と金さんは、自宅を訪ねた孫のような筆者に深々とお辞儀をした。そして、終始、慶尚道訛りの丁寧な敬語を用いて接してくれた。 戦禍の中で 金さんが日本に渡ってきたのは数えで20歳(1938年)のときだった。結婚を期に夫と共に渡日。戦争が激化していた頃で、日本の女性たちはたすきをかけて戦地へ行く兵隊を見送り、千人針をしていた。空襲が激しくなると、同郷の人たちと名谷に疎開した。乳飲み子を背負い、山道を駆け上がる途中で「目の前に弾丸が降って来て」まさに命がけの逃避行だった。 当時は朝鮮名の使用が固く禁じられていた。しかし、金さんはそれを断固として拒否し続けた。役所に提出する書類に朝鮮名を書き記し、ついには県庁に呼び出されたことも。しかし、そこでどんなに脅されても、金さんはキッパリ断った。 解放を迎え、日本で虐げられていた同胞たちは我先にと帰郷を急いだ。「アメリカが攻め込んでくるから早く帰るんだ!」と実兄は、ゴム靴と洗濯石鹸そして闇市で1枚100円もする高価な切符を買って金さんを訪ねた。 「当時は神戸駅に行って3、4日も泊まらなきゃ切符が買えなかった。買う時には理由を明かさなきゃならなかったしね。父の誕生日を控えていたので、兄は私と夫、2人分の切符を買って持たせてくれた」 しかし、金さんは帰らなかった。帰郷を急ぐ同胞たちを乗せた闇船の沈没事故が相次ぎ、故郷に戻っても生活基盤がない者たちは生きていくのが大変だという噂が回っていた。日本で稼いだお金を持っていくのにも制限があり、金さんは、貴重な切符までをも売って、しばらく日本で暮らす道を選んだのだ。「昔は闇商売で何でもやった。アメリカの砂糖や煙草を手に入れて売りもしたし、酒も作って売った。針仕事で生計を立てた時代もあった」と遠い過去を振り返る。 2つの自慢 26歳で解放を迎え、その翌年、故郷の仲間と朝聯垂水分会婦女部の結成に奔走した。48年、4.24教育闘争の時には体を張って学校を守り、朝鮮民主主義人民共和国建国時には厳しい弾圧の中、共和国旗をチマの中に隠し持ち、九州から神戸に入ってきた自転車行進隊の歓迎大会でそれをすばやく翻した。「解放後は、闘争という闘争に欠かさず参加した」というのが金さんの自慢である。 婦女部の活動や闘争だけではなく、金さんは朝鮮新報西神戸分局の仕事も熱心にこなした。同胞密集地域として知られる長田区で、暑い日も、寒い日も、朝鮮新報を小脇に抱え、同胞の家をくまなく訪ねた。購読料もきっちり支払い「朝鮮新報社には借金がない」というのが金さんのもう1つの自慢でもある。 統一を信じて こうした活動の一方で、総連以外の同胞たちとの交流にも力を注いだ。「あの人たちは主体思想がないから」と金さんは口癖のように言う。地元では知る人ぞ知る名物人間の金さんは、民団の人たちの間でも「親分」の愛称で親しまれている。中には「アカ親分」と呼ぶ人もいるのだとか。 金さんは、同胞と見れば民団の人であっても「子どもを朝鮮学校に、大人は成人学校に」と声をかけて歩いた。祖国は分断され、日本でも組織間の対立が激しかった時代のことである。 総連のみならず民団の同胞たちとも広く付き合う金さんには、民団側が推進する「母国訪問」の誘いもあった。しかし、共和国を信じ、祖国統一を強く願う金さんに揺るぎはなかった。金さんが再び故郷の地を訪れたのは、2000年「総連故郷訪問団」の1員としてのことだった。60年ぶりの帰郷、恋しい母は帰らぬ人となっていた。 現在は、高齢のため病院通いが日課となっているが、それでも総連の集いを欠かしたことはない。それは生涯変わらぬ金さんにとっての生きがいなのだ。(金潤順記者) [朝鮮新報 2004.3.8] |