〈朝鮮歴史民俗の旅〉 花(1) |
古今東西に花ほど愛され、たたえられてきたものはない。花は人々にやすらぎと喜びを与え心に潤いをもたらすからである。花を鑑賞して楽しむことは古来どの民族も等しく行ってきた。歌にうたい、絵に描き、衣服の模様とし、山野を巡りながら花見を楽しんだ。 朝鮮は温帯性気候の国であるが、日本と違って常緑樹の景観に乏しい。それだけに春の若草が野山を覆うころは特に美しい季節となる。長い冬から解き放たれると、人々は春爛漫の野山を駆けめぐり花を楽しんできた。 早春、まだ春の温もりがないというのに、淡いピンクのつつじと黄色いレンギョウの花が山肌に咲き始めると、霞みのような美しさに人々は春の到来を感じ取る。しかし、つつじとレンギョウは春を告げる花であって花見のための花ではない。 花と言えば日本では桜である。列島を北上する桜前線に国民の耳目が集中し、それが通り過ぎれば春の季節は遠のいて行く。もちろん朝鮮にも桜はある。しかし、この民族は桜に対してはまったく興味を示さない。パッと咲いてサッと散る桜に、日本人はいさぎよさとともに、ものの哀れやはかなさを感じて、それに魅せられ心が躍るという。だが、陽気でしぶとい朝鮮人には、桜はいかにも淡白で脆弱にさえ映るのである。朝鮮に桜を詠った詩もなく、花見を行ったという記録さえない。それもそのはずである。朝鮮で桜は、棍棒、木刀、槍、弓など武具の材料として必要であって、鑑賞用にと植えられたものではないからである。 ちなみに朝鮮王朝を通じて桜の植樹に一番熱心であったのは孝宗王であった。彼は壬辰倭乱と丙子胡乱の屈辱をはらそうと軍事力の強化を進めたが、その時植えた桜が智異山双渓寺に今も見られる。 朝鮮人が好む花見の花は、一に桃、二に杏、そして梨と五月と続く。これらの花が咲き乱れる4、5月はまさに花見の季節。人々は浮かれたように群れをなして山野を巡り楽しんだ。王族や両班たちは幕を巡らし妓生をはべらせての園遊会。チャンゴやカヤグムの調べが鳴り響くなか女たちの「チワジャー」「チョワヨー」の嬌声が湧き上がった。 庶民にとっても花見は大きな楽しみであった。男たちは、この日のためにと仕込んでいたマッコルリを背負い、派手に着飾って女たちは調理器や食材を頭に載せて持ち運んだ。花見客相手の酒売りや餅売りが大声を張り上げ、花のあるところはいずこも野外演舞場と化していた。 花見のメインイベントは花煎ノリであった。花煎ノリとは季節の花を調理していただく食べ遊びのことである。多くの花が食用に用いられたが、一番おいしいのはつつじであった。もち米を粥状にしてその上に花びらを浮かせ、ゴマ油で炒めてチジミ風に造り上げる一品である。それを肴に飲んで食べて遊び楽しんだ。その光景を16世紀の詩人李白湖はつぎのように詠んでいる。 川辺に石を積んで鍋を架け 花煎ノリでは、よもぎやセリやつる人参など春の山菜も好んで食べたらしい。「農家月令歌」につぎの一首がある。 落花に座して瓶酒に酔う 朝鮮語で花見をコンノリと言い、集って飲み食い歌い踊ることをトゥルノリ(野遊会)という。それは、焼肉の煙がもくもくと立ち込めるなか、チャンゴや銅鑼など鳴り物を鳴らしながら騒然と繰り広げられる。在日同胞社会でよく見かけるこの光景は、日本の花見とまったく異なる朝鮮民族伝統の遊び方である。春を喜び花を楽しむ民族の心は、異国の地にあってもすたれることを知らない。 朝鮮人にとって花は、美しさと華やかさ、繁栄と栄華の象徴である。美しい女性を「花容」といい、青春時代を「花の季節」といい、幸せな家を表して「花が咲く家」という。花は崇拝と求愛、尊敬と親愛、祝福と慰問の表示でもある。両親の健康と長寿を祝って花を贈り、恋人に求愛のしるしとして花を捧げた。婚礼の席では、春は椿を、秋は菊を白磁に添え、合房礼(初夜)を迎えてはそれを新婦の部屋に置いて飾った。朝鮮王朝の時代に、国王自らが科挙試験に合格した士大夫を祝して花を贈るならわしがあったが、当時その花を御賜花と呼んだ。 朝鮮に花に関する記録は多い。「東史綱目」には、百済16代辰斯王の時代に、蓮池と庭園を造成し周囲に多くの花を植えた、という記録が残されている。また、「三国史記」は新羅でも大がかりな庭園が造られ、樹木と花が植えられていたことを伝えている。 朝鮮の園芸術は海を渡って日本に伝えられた。「日本書紀」に百済の人・路子工が宮城の南に庭園を造り須弥山と呉橋を置いた、という記録がある。また、百済からは仏教とともに供花(仏前に花を飾ること)の方法も伝わり、これがもとになって華道と呼ばれる生け花の文化が育っていった。生け花といえば日本が世界に誇る芸術であるが、その原点に百済の園芸術があったことを忘れてはならない。 (※注)嘉肴―おいしい料理 (朴禮緒、朝鮮大学校文学歴史学部非常勤講師) [朝鮮新報 2004.3.13] |