〈朝鮮歴史民俗の旅〉 花(2) |
花に対する朝鮮人の感性はするどい。「三国史記」に次のような話が記録されている。 「新羅26代真平王の時代に、唐の皇帝が牡丹を描いた絵と牡丹の種を新羅王に贈った。牡丹の種は宮廷に蒔かれ、絵は王室の間に飾られた。絵は一流絵師の腕によるものらしく最高の出来ばえで、国王は大いに喜んだ。ところが、王の娘公主・徳曼(後の善徳女王)がよく見ると、絵には当然描き入れられるべき蝶や蜂の姿が見当たらない。そこで彼女は国王に、『香りのない花を贈るとは何と傲慢な振る舞いでしょうか。この絵には小国である新羅を蔑む下心が敷かれています』と言って、二度と振り向こうとしなかった。時が過ぎて花の季節がやってきた。裏庭に蒔かれた牡丹の花が咲き乱れ宮廷は花園のように輝いた。しかし、臣下や宮女たちは喜びはしゃいだが、蝶も蜂もただ一匹として寄りつかなかった。贈られた牡丹の種も絵と同様に香りのない花の種であった。徳曼の予見は的中した」 これは、善徳女王の知性と政治的手腕を称えた逸話である。が、この話には花に人の心を見出す朝鮮民族の「花香人情(花の命は香りにあり人の命は情にある)」の考えが表されている。 15世紀の朝鮮王朝の時代に「養花小録」という園芸書が書かれた。著者は当代一流の学者・姜希顔であった。彼は「養花小録」の中で、松と竹の栽培方法と、菊、梅、蘭、蓮など12種類の花の栽培方法を記し、盆栽を造る「種盆花樹法」、花を早く咲かせる「催花法」、寒さから花を守る「収蔵法」、奇岩怪石などで庭を造る「庭園造作法」を、こと細かく記している。 さらに興味あることは、多くの花の特徴を分類して、それらに9つの等級を与えていることである。9等級は正・従一品から九品にいたる朝鮮王朝官吏の序列にならったものである。花にも等級を与えるとは、いかにも序列を重んじる朝鮮の儒者にふさわしい発想である。 例えば、第1等級に梅、菊、蓮をあげている。その理由は、朝鮮の士大夫が持つべき節をそなえているからであると説明する。第2等級は牡丹と芍薬であるが、それは富貴と栄華をたたえているからであるという。ちなみに、3位に椿、4位に梨、5位に薔薇、そして、木蓮、無窮花、つつじ、ひまわりと続く。 梅、菊、蓮が第1等級であることに異論を唱える者はいなかった。厳しい冬に咲く梅の白さは不変不屈の忠誠心であり、霜にも耐えて晩秋に一人咲く菊の美しさは孤独にして気高い品性の証であり、水に侵されず泥にも汚されることのない蓮の姿は清廉潔白のしるしであった。 朝鮮の両班ほど花を愛した者たちはいなかった。高い教養を身につけていた彼らは風流人でもあった。誰もが一つか二つの好みの花を持ち、「梅月」とか「蘭雪」といった具合に花の名をとって號とした。花はどこの両班の邸宅にも植えられ、春3月ともなれば「王城10万戸杏花村の景を成す」と、当時の資料は記録している。 両班的花鑑賞法があった。その一つは、詩作と兼ねて花見を行うことである。当時、両班の社会には、同属、同門などによって多くの詩社が作られ、ほとんどの両班はその一員として名を連ねていた。18世紀を代表する「竹欄詩社」はその規約に次のように書いている。 「杏の花が年の初めに咲くと一度集まり、桃の花が咲く時と、夏にマクワウリが熟す時に集まり、秋の西蓮池に蓮の花が満開になれば花見に集まり、菊の花が咲いているのに雪が降ると例外的に集まり、また年が暮れる頃、盆に植えた梅の花が咲けばもう一度集まる」 このような詩社の風習は、中世以降の両班社会ではごく一般的なことで、両班たちは競って花の名勝を訪れ詩を詠んだ。詩を詠むに留まらなかった。例えば、上の「竹欄詩社」にも見られる西蓮池の花見である。それは、夜明け前に舟を浮かべ、その上に座り、明け方、蓮が花を咲かせる際の音を聞く「聴開花声」といわれる遊びであった。花咲く音にまで耳を傾けるこだわりとはまさに興趣の至りである。 両班的花鑑賞法の二つ目は、花に己の心と姿を見出すことである。 すでに「酒と酒道」の項で述べた酒豪・申用漑である。彼は菊の盆栽作りの名人であり最高の鑑賞者でもあった。独酌家であった彼にとって菊は最も親しい友であったらしい。世俗を嫌って老後に孤高を貫いた彼は、菊を友にして対座し、語り詠って余生を過ごしたという。 儒学者・成悓が愛したのは梅であった。暴君・燕山君に憎まれ都落ちして野に下った彼は、雪の降るなか梅の木の下に座り琴を弾いて一時を過ごした。その姿を「奇斉雑記」は次のように描いている。 「その時、月光は真昼のように明るく、梅の花は満開。白髪は風になびき、清涼な楽の調べが香りに乗って流れると、あたかも神仙が降りてきたかのように、ふと清らかで涼しい気運が全身に充満してくるのを覚える。成悓はまこと仙道道骨の風流客といえよう」 菊は孤高の気品を、梅は不変不屈の忠誠心を表すと言った。申、成の両者はいずれも世に轟く最高位の官僚であった。たとえ野に下ろうと信念は不変。彼らは菊と梅に自らの気骨と品性を見出し、己の姿をじっと見つめ、語り合い、納得し、そして気高く生きることを誓ったのであろう。朝鮮の両班士大夫たちは鋭い洞察力の持ち主であった。花にさえ儒学の精神を読み取っていたからである。朝鮮儒学の最高峰李退渓が自分の邸宅に蓮池を設けていたことはよく知られている。(朴禮緒、朝鮮大学校文学歴史学部非常勤講師) [朝鮮新報 2004.3.22] |