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〈女性・仕事・作品〉 居酒屋店主・夫貞愛さん

 阪急西宮北口から徒歩1分の所に居酒屋「さだ」はひっそりとたたずんでいる。阪神・淡路大震災を乗り越えて、ここに14年間立ち続けている店の看板女将は夫貞愛さん。持ち前の明るさと屈託のない笑顔で、仕事帰りのサラリーマンやOLたちの心を癒している。

 店内には日本の小学校で行われた秋の「国際文化交流会」の写真が飾られている。「朝鮮歌舞団を呼んで、日本の子どもたちにチャンゴを教えた。写真は教頭先生が撮ってくれたもの」と夫さんは言う。近くの学校の先生たちはこの店の常連客である。

 朝鮮料理と日本料理がほぼ半々で並べられているメニューを見て「いつ来たの?」と聞くお客さんもいるのだとか。「最近のお客さんは好奇心旺盛。私が『在日』やって答えたら、しゃべれるの? なんで?と、返してくる。だからうちは学校で習ったからと答えてあげる。ここは1つの交流の場やね」。

 震災のときは朝鮮学校の復興バザーへの参加を呼びかけた。金剛山歌劇団の公演があればチケットを売り、朝鮮が水害に襲われたときには「ミルク1缶1700円」と一口カンパを呼びかけた。そして、約30万円の募金を集めて第1次支援物資伝達団の一員として、ミルクを朝鮮の小さな子どもたちに直接手渡した。

 「日本の先生たちはPTAや自治体の人たちを連れてきてくれる。話題はおのずと朝鮮学校へ。オモニ会が作ったキムチを転売して、朝鮮学校のオモニ委員と市内5つの日本の学校とが交流を持つようにもなった」

 夫さんは、店を持つ前、大阪、兵庫で8年間朝鮮学校の教員をしていた。結婚後は女性同盟西宮支部委員長をしていた姑とともに約20年間分会での活動に精を出した。子どものいない夫さんにとって、当初は女性同盟の活動が苦痛でしかなかったという。育児真っ只中の若い母親たちの話題は、公園、保育園、幼稚園、学校…と、夫さんの胸を刺すものばかり。

 「最初は本当につらかった。子育て経験がない私が何の役に立つのかとも思った。だけど、先輩のオモニと一緒に同胞の家を訪ねるうちに、つらいのは自分だけじゃない、同胞にもいろんな人が居て、そんな人たちとお互い助け合いながら生きていければ良いなと思えるようになった」

 姑は厳しい人だったが、ともに働くうちに次第に姑の思いがわかるようになってきた。「いつの間にか、代を継がなきゃって思うようになってきて」。ついには女性同盟西宮支部委員長に就任。しかし、人生は一筋縄ではいかない。就任間もなく地域の朝鮮学校の統合問題が浮上した。委員長という立場から、夫さんは「今後のため」を思い「賛成」票を投じたが、これに同胞が反発、亀裂が生じるという苦い思いも経験した。

 夫さんが教壇に立っていた頃は、「朝鮮学校ボロ学校〜!」と日本の子どもたちに蔑まれていた掘建て小屋のような校舎を、同胞たちの手で鉄筋校舎に建てかえる活気あふれる時代であった。それだけに学校に対する愛着は人一倍強いと自負している。「しかし、この不景気の中で年間1,000万円の固定資産税を払い続けることができるのか?」 折しも朝・日首脳会談が行われた後のこと。離れて行く同胞も中にはいたという。「まるで敗戦後の焼け跡に立っているような気分がした」と夫さんは言う。

 夫さんはまた、市内の日本学校で非常勤講師として教壇に立ったこともある。「アンニョンハセヨ。私は日本で生まれた在日2世です」と、自分の生い立ちから成長過程をわかりやすく説明し、お得意の朝鮮料理作りで子どもたちが隣国の食文化に親しみを持てるよう触れ合ってきた。「在日の子は1クラスに1〜2人かな。日本の子達と一緒に無理なく民族に触れる環境が彼らにとって良いのかも」。

 朝鮮学校で育ち、教員畑で働いてきた彼女にとって、店は「日本人との垣根をはらう」役割をした。「小さいときはよく苛められたから…」。そう語る夫さんだが「朝鮮人でも日本人でも、わかる人はわかってくれる。本音で付き合えば、人間必ずわかりあえる」と熱っぽく話す。そして、「私たちを取り巻く状況は厳しいけれど、朝鮮人ということからはどんなことをしても逃げられない。だったら日本の人たちと手を取り合って、自分の手で小さなところから世の中を変えていく努力をした方がなんぼか良いか」と話していた。(金潤順記者)

[朝鮮新報 2004.3.22]