山あいの村から−農と食を考える(18) |
イラク派兵やめ荒れた田畑耕せ 東京という都会が日本の表面の縮図だとすれば、その裏面になっている「山あいの村」や「海辺の村」もまた日本の縮図だ。 表面の大都市には、あふれんばかりに人が集まり、重なるようにして人が住み、どこの誰がつくったものかも知れない食べ物を食べ、根なし草のようにして生きている。その人たちの暮らしには、いったいどんな希望や幸福感があるのだろうか、と時折思う。 一方、山あいの村だけでなく、海辺の漁村や、ましてや離島などには若者がいなくなり、住む人の老齢化が進み、まもなく「家」と「村」がなくなりそうになっている。このような二極分離があって、ともするとあと数十年後には、この国が表も裏も共に亡びることになるのではないか、といった不安感が私の身をよぎる。つまり日本の「今」には、裏と表に一体感も調和も協調もないのだ。 地方自治体の財政のみにあらず、国の財政もたいへんな赤字に苦慮するなか、「国益」という名のもとに、イラクへの自衛隊派遣が行われている。これは、日本の根なし草をますます促すことにしかならないことが、山あいの村に居る私にはよくわかる。そしてわが妻は、ときおり「イラクの復興を手伝うことよりも、この村の荒れはてた田畑を耕すことを、政府はどうしてしようとしないのか」となげくのである。その都度私は、イラクの石油よりも日本のコメがどうしてこうも値打ちのないものになったのかねと、ただただにが笑いしていともまじめなその顔を見返す。 この国はいま「飽食」の状況にあるという。そしてコメをつくる田んぼは、3分の1が荒らされている。大豆やそばを栽培しているなどとはいうものの、それは補助金をもらうがための名目的栽培でしかなく、その収量などは、ほんのいささかなものにすぎない。それでいてコメ以外の家畜の餌はもちろん、野菜までもが、よその国にすっかり依存していることを忘れている人が多くいるのだ。 スーパーに並んでいる肉も、魚も大方が外国からの輸入物だし、最近は野菜までも半分近くが外国産のものなのだ。そしてそれらを見ても何らおかしくも、不思議とも思うこともなく、「あたりまえなこと」と思うようになっている。すなわち、日本の「飽食」には国家としての「根」もなくし人の心の「根」をもなくしているのだ。 BSEがアメリカの牛にも出て、アメリカからの牛肉輸入をストップしたことにより、吉野家の安い牛丼がなくなったというニュースがまださめやらぬうち、こんどは鶏のインフルエンザで大さわぎだ。このウィルスがどこから舞いこみ、感染したのか私には分からないが、しかしこれは、たいへんなことだ。低所得者である庶民の暮らしに響くこと請け合いだからである。 しかし思うに、O−157から始まり、BSE、そしてこんどの鶏インフルエンザといった一連の流れを考えるときこれみなグローバリズムの弊害であることがわかる。BSEの感染経路は、肉骨粉のエサによるものとされたが、鶏のエサだって100%が輸入物なのだから。インフルエンザもそうしたなかで、感染したものと考えておかしくない。なぜなら、ウィルスはグローバリズムの波に乗って出入りするからである。 そもそも、鶏というのは「ニワトリ」と呼ぶように、庭で飼うものだった。10羽とか、20羽ぐらいを庭に放して、クズ米や残飯を与え、堆肥の中にいる蚯や虫の卵などを食べさせて飼うものだったのだ。それが今は、そうでなく何万羽、何十万羽を1棟の鶏舎に飼って、輸入した得体の知れない飼料を与え、病気を防ぐためにエサに薬剤を混入している。それでこんどは、その薬剤も効かない怖いウィルスがまい込んできたのだと考えていい。 つまりこうした不自然な「人間の勝手な行為」がこうした恐ろしい「病」を広げ、ともすると、人の命をも奪うことにもなりかねない。 そろそろ山あいの私の村も雪解けが始まった。南向きの日だまりのいい土手には、フキノトウが出始めた。春の息吹を示すこのフキノトウは、味噌に摺り合わせてあたたかいごはんにかけて食べても香がいいし、天ぷらにすると絶品である。まさに「自然」そのものの香りだ。そしてこの自然の香りこそが「食」の基本なのだ。その味と香を今、日本の農政をあずかる人は忘れている。 最近「食育教育」という言葉をよく見聞きする。「食に対する認識を国民に深めさせる」という意味らしい。だが私には、どこかおかしな気がする。国民に対し、食べ物についての認識を深めさせる以前に、輸入を減らし、この山あいの田んぼや畑に、コメをつくり、大豆や麦、野菜を栽培できる道を拓くことの施策を講ずることこそが大事なのだ。私はそれらの実態と必要性をこの連載の中で書き、訴えてきたつもりだが、まだまだ不充分であった、と心残りでならない。ついては、またの機会をと念じながら、ひとまずこの連載を終えることにする。ご愛読とご声援ほんとうにありがとう。 なお、この国の農業のみならず、日本の国全体の前途は私の居る山あいの村がどうなるか、またはどうするかといった国の施策のいかんにかかわるものであるということを、重ねていわせてもらい筆を置く。(佐藤藤三郎、農民作家) [朝鮮新報 2004.3.26] |