〈人物で見る日本の朝鮮観〉 樽井藤吉 |
大和(やまと)の人、樽井藤吉(たるいとうきち)(1850〜1922)は日本近代史上、特異な存在である。その特異たるゆえんは、日本で最初に社会主義を名乗る「東洋社会党」を明治15(1881)年5月という早い時期に、肥前島原で結成したという先駆性にあり、今一つは明治26(1893)年に日本と朝鮮の対等合邦を説いた『大東合邦論』を著述刊行した点にある。 樽井は嘉永3年、大和(奈良県)五条で材木商の樽井要助の次男として生れた。彼の学問修業については、五条出身の大儒森田節斎に教わったという説もあるが確かではない。しかし、山路愛山は後年、樽井は「一種の天才的な素質を持っておった」と証言しており、吉野作造も聞き書きとして、「別に正式の教育を受けぬが、不思議に独創の見に富んだ天才肌の人」という言を伝えている。 樽井の自叙伝によると、明治6年5月に上京した彼は、翌年1月、右大臣岩倉具視に意見書を奉(たてまつ)っている。「紳士富豪の輩(やから)は〜生産の惰民(だみん)なり、〜富国安民の策は不生産者をして労務に服さしめ、共同の力を以(もっ)て苦楽を共にせざるべからず」と。 「東洋社会党考」を著した田中惣五郎は「明治七年の日本である。〜その七年に早くも社会主義的政策を上書したのだから恐(おそろ)しい」と書いた。 その先進的思想の所有者たる樽井藤吉が、この東京で征韓論の狂熱に触れ、自らも熱烈な征韓論者へと変貌してゆくのだから人は分からない。 ある同郷の先輩が、樽井を西郷隆盛の書生に推そうとしたが、征韓論に破れたばかりの西郷は鹿児島への帰り仕度をしていたので果せなかった。彼は井上頼圀(よりくに)の塾に入門する。井上は平田篤胤(あつたね)の流れをくむ学者である。この塾で大いに征韓論を吹きこまれ、西南戦争の時、西郷軍に呼応するため、彼は東北地方に募兵に赴いている。 やがて彼の征韓論は、朝鮮近海の無人島探しに発展する。無人島は済州島を指していたらしい。この無人島探しは明治11(1878)年12月から明治13(1880)年12月までの3年間続き、4回試みたという。「果して此(この)無人島あらば、寔(まこと)に国家の大幸なり。予は平素より我国は先(ま)づ朝鮮を侵略するにあらざれば、発展の緒を開くこと能(あた)はずと思料するものなり。幸に此無人島あるに於(おい)ては之(これ)を我党有志の梁山泊として徐々有志を招き、之を征韓策の根拠地たらしむ」(「自記実歴」樽井藤吉)。樽井の考え通りにゆけば、無人島は征韓の策源地になるはずのものであった。 ところで、彼が「東洋社会党」を結成したのは明治15年5月25日であるが、その満2カ月前の3月24日、樽井は自己の征韓構想を根底からゆるがす程の人物に出会う。すなわち金玉均である。この年3月、金玉均は初渡日を果し、長崎に1カ月滞在していた。この時、金玉均と樽井は、長崎で出会い、筆談をしている。後、甲申政変の失敗で玉均日本亡命の際、樽井は軍資金作りに着手し、朝鮮侵攻計画を立て、金玉均を立たせようとしたが、玉均は乗らなかった。 明治25年、樽井は衆議院に出馬し、当選する。資金は大和の山林王、土倉庄三郎が出した。 その代議士時代の明治26(1893)年、樽井は問題の書「大東合邦論」を世に出すのである。この本は全文漢文である。 この本の要点は、ヨーロッパ列強の侵略に対し、日本の生き残れる道は、朝鮮と合邦し、清国とは合縦(がっしょう、同盟)することだと、連帯論を強く打ち出していることであり、また、朝鮮との合邦は、対等合邦であり、日本・朝鮮双方の君主は従来の地位は保証されるとした。そして、国名は、双方の国のいずれにも偏しない「大東国」を名乗るべきを提議する。また、参政権についても「各邦人民をして合成一統国の大政に参ずるを得しめる」として、双方人民の参政権を認めている。 朝鮮と日本との合邦や連邦めいた提案は樽井がはじめてではない。横山正太郎の項で紹介した宮本小一郎も同じ意見書中で、日本と朝鮮との「合衆聯邦」を提起している。だが、この時の樽井ほど、対等合邦を精(くわ)しく説いた本ははじめてである。しかし、17年後に再刊された時、本の性格は全く異なっていた。本文はほとんど変らないが、「再刊要旨」などの附属文によって、この本は統監政治、ひいては次の「併合」に全く適合するものとなっていた。この書は朝鮮浪人、大陸浪人、大アジア主義者の理論的根拠にされて、連帯を名とした侵略に大いに利用され、また、親日組織一進会の李容九、宋秉oらも自己の「合邦論」に援用する。 初版本が、朝鮮、またはアジアに対する連帯と侵略の思想が未分化の時代の産物とはいえ、著者樽井藤吉が、強烈な征韓論者であったことが大きく関連している。 樽井の論の弱さは、その主張の矛盾が結果的に侵略肯定の論理になるところにある。 また、彼が主張した対等の「合邦」とは似ても似つかぬ形と内容で朝鮮が併合された時、彼は喜ぶのである。つまり、彼自身の行動によってもその「論」の破産は証明された。(琴秉洞、朝・日近代史研究) [朝鮮新報 2004.3.31] |