〈朝鮮歴史民俗の旅〉 白衣(1) |
朝鮮人は自らを「白衣民族」と呼ぶ。白色の衣服を好んで身に着ける民族であるということだ。赤色が挑発的であるのに対して、白色は潔白、純粋、平和を表すという。しかし、それは色彩に対する現代的解釈であって、朝鮮人の白衣の習慣はそういうこととは無関係である。白衣は今に始まったのではない。その由来は民族開闢の歴史に発する。 朝鮮人が白衣を好んで着ていた事実は多くの記録から明らかだ。 中国の漢時代の史書「三国史」は古代朝鮮の扶余国について「衣服は常に白色なり」と書いており、時代が下って書かれた「随書」も「新羅の服飾は久しくこれ素朴なり」と書いている。高麗時代に使臣として朝鮮に派遣された中国人・徐兢は「高麗図経」でつぎのように言っている。 「臣は三韓の人々が衣服を染色して着るのをいまだ聞かず」 染色しないということは白衣を着ていたということである。 朝鮮王朝の時代にも白衣の記録は多い。成宗王19年(1488)に来朝した明の使臣・憧越は、「朝鮮賦」の中で「衣皆素白」と書いている。「素白」という表現に、質素な朝鮮の服装に対する筆者の驚きが現れている。豪華な中国の衣装に比べ、白一色の朝鮮の服装はいかにも素朴で貧弱なものと、彼の目には映ったのであろう。 その白衣民族の生活模様が18世紀の風俗画によく描かれている。例えば、当時の代表的画家であった金弘道の絵に「相撲図」があるが、画面中心で相撲をとる力士も、その周囲にまるくなって見守る数十人の観客も、皆等しく白一色である。白一色では人の個性を表せない。そこで作者は人物の特徴を綿密に観察し、両班は両班らしく、庶民は庶民らしく、工夫をこらしてリアルに描いている。 朝鮮時代の白一色の風俗、人物画で際立って目に映る人物がいた。それは、華やかに着飾った妓生と居酒屋の女将たちである。彼女たちを除くと一般の社会生活は、両班も庶民も大人も子どもも白衣であった。 白衣民族であることから生まれた習慣と癖がこの民族にあった。朝鮮の風俗画に川辺で沐浴する光景と洗濯する風景が多く見られる。洗濯機の普及で今は見られなくなったが、川辺での洗濯は長らくこの民族の風物詩であった。世界で朝鮮の女ほど洗濯に追われた女性はいなかったはずである。汚れが目立ちやすい白衣の民族にとって、衣服の清潔を保つことは日常的に不可欠なことであったのである。 白衣であることから生まれた独特の癖がこの民族にある。顔を洗う時、顔と同時に首を洗う癖である。なぜ首を洗うのかについては後に廻して、ここで一つの笑い話を紹介する。 日本の植民地統治下。ある義兵部隊であったことだ。朝の起床後、隊員たちが小川で顔を洗っていると、不思議な洗い方をするものが一人いた。手に水を付けて2、3回顔をなぞり、さっと手ぬぐいで拭いて立ち去るという、猫も驚くほどのスピード洗顔法である。不審に思った隊員が参謀部に通告して捕まえて詰問すると、何とその男は日本の関東軍が送り込んだスパイであった。スパイ教育を受けて完ぺきなまでに朝鮮人になりすましていたが、首を洗う癖を身につけるには及ばなかったのである。 朝鮮人が首を洗うには白衣であるがゆえの理由がある。首を清潔にしないと襟が汚れる。汚れた襟は不浄のしるし、相手に対して大変失礼である。それで顔と同時に首を洗う習慣が数千年の昔から生まれ美風として伝えられてきた。 白衣を身にまとい首を洗う習慣は、同胞社会でも1世の頃まではよく見られた。顔を洗い首を洗い、そして体まで洗ううちに水浸しになっていった洗面所を、なつかしい記憶としてとどめている2世もいるはずだ。 ちなみに、朝鮮高校の女子生徒のチョゴリに真っ白なトンジョンがほどこされているのも、汚れから清潔と清純さを守るための、白衣民族ならではの習慣であることを付け足しておく。 朝鮮民族は古代より数千年の歴史を白衣で通してきている。しかし、その間、その白一色を見直そうという動きが、高麗中葉以降幾度か起きている。 それは儒教の陰陽思想からの発想で、いわく、儒教の陰陽五行思想で白色は、方位においては西を現すので、中国の東側に位置している朝鮮は、当然、東を現す青色を求めるべきである、と言うのである。 儒教が国教になっていた朝鮮王朝のもとで、歴代の政府は、白衣をやめさす一方で、国民服色ともいうべき色彩を決めて強要した。例えば、王朝の初期には灰色と玉色、世宗王の時代は黄色、成宗王の時代は青色、宣祖王の時代は紅色といった具合にである。英祖王にいたっては、国の基本法である「続大典」に「文武百官はもとより民百姓にいたるまで、国民はすべて青色の服装をしなければならない」と書き加えている。 この法令に対して庶民はもとより両班士大夫も不服である。といって国法を犯せば重大事である。そこで思案に思案を重ねて知恵をしぼって、考案されたのが「浅淡服」である。それは限りなく白色に近いブルーであった。ほとんど白色といって間違いないが、彼らは逆にそれを青色系の白色と弁明した。それほどまでに白色に固執していたのである。しかし、このような姑息なやり方は、かえって国王の怒りに触れることとなり、その年の科挙試験に「浅淡服」で挑んだ者は、すべて資格剥奪の目に合うこととなった。にもかかわらず、白衣は依然愛着され続けたのである。(朴禮緒、朝鮮大学校文学歴史学部非常勤講師) [朝鮮新報 2004.4.2] |