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〈朝鮮近代史の中の苦闘する女性たち〉 烈士・柳寛順(上)

 手元に2枚の写真がある。

 1枚は梨花学堂に入学した当時、学友と共に写っている。14歳の頃で、友だちの肩に手をやって、首を少し傾けほほえんでいる。

 もう1枚の写真は、1919年8月1日、ソウルの西大門刑務所に捕らえられた時のものである。胸のところのに当て布に漢字で柳寛順と書かれている。真正面と横向きの2枚の写真である。目と頬がはれあがっているが、しっかりした眼差しである。黒目が大きく、まっすぐな眼差しが意志の強さを表している。鼻は、顔の真ん中にどっしりとすわり、先端は少々丸みをおび、肉付きのいい鼻である。唇は、肉厚でしっかりと結ばれて、一徹さがうかがえる。顔の腫れは拷問のあとである。

天安郡に生家

 柳寛順は1902年3月15日、忠清南道天安郡(現在の天安市)並川面(旧芝霊里)で、父柳重権と母李少悌の4人兄妹の一人娘として生まれた。

 天安市は、天の下、安らかなる地として天安市という名がついている。洪水や雪の被害もなく、気候もおだやかで、りんご、梨、ブドウなどの果実がたわわに実る広々とした田園である。柳寛順の家は、代々の名家であった。生家は鷹峰山を背に見渡すかぎりの田園が広がっている。

 柳寛順の父柳重権は、貧しくて書堂に行けなかった子どもや、女子を教育するために学校や教会を建て、全財産をなげうった。

 柳寛順は兄寛玉、弟寛福、寛錫の三兄弟の中、一人娘として両親の愛をひとりじめにして育った。幼い時から一度自分が正しいと思うと、頑として譲らぬところがあったが、日曜日には率先して兄と一緒に村の子どもたちに文字を教えた。よく子どもたちの面倒をみてはみんなに慕われていた。

 当時、忠清道教区本部から芝霊里にきていた女性宣教師のアリス・H・シャープの推薦により、奨学生としてソウルの梨花学堂の普通科3年生として編入した。1918年3月には高等科に進学した。

 当時、朝鮮は日本を始めとした、帝国主義の列強の侵略に立ち向かいつつ、内的には前近代的な社会体制を乗り越えて、自主的な近代化を成し遂げようと闘っていた。しかし1905年乙巳五条約、1907年には自国の軍隊さえも解散させられ、解散軍人たちは義兵運動に加わり、義兵闘争は新しい局面を迎えていた。また、1907年には、朝鮮王朝の王高宗は、オランダ・ハーグで行われる第2回万国平和会議に、李儁、李サンソル、李瑋鐘の3名の特使を派遣して、乙巳五条約の不法性と、日帝の武力侵略行為の不当性を世界に暴露して、国際世論を喚起しようとしたが、日本の妨害により会議に参席できず、記者会見で世界の人々にアピールした。しかし、会議に取り上げられず、李儁は憤怒をこらえきれず、その会場で自害した。

女性の役割強まる

 1914年に、日本は朝鮮の全域の行政を改編し、100余りの郡、1842の面、40542の洞、里を廃止し、1917年には、面の機能を強化して、面長を全面的に替え、親日派におきかえた。1917年、ロシア革命、1918年に米暴動、1918年土地調査事業の名目のもと、農民から土地を奪い、その一方でシベリアに7万2千名の兵力を派遣した。

 列強の侵略と共に、西洋文化が入り、社会情勢の変化と共に、女性の教育が要求され、1886年梨花学堂が設立され、女学校建設が全国に広がり、1910年の咸興のヨンセン女学校まで、42の女子学校が設立された。また、朝鮮の国権回復のため、国債を買い戻す運動がおこり、女性たちが積極的に関わって、ソウルから済州島まで、30の婦人会が設立され、朝鮮独立運動における女性の役割が大きく広がることになった。

 柳寛順が高等科に進学した1919年、1月22日に事件が起きた。

 朝鮮の前王、高宗の訃報である。毒殺されたという噂が流れた。国を奪われ、前国王まで殺されたというニュースが全国に伝わると、反日感情がいやが上にも盛り上がってきた。(高貞子、児童文学作家)

※柳寛順(1902〜20) 忠清南道天安郡並川面生まれ。梨花学堂(現、梨花女子大学)在学中の1919年3.1独立運動のデモに参加して、日帝によって逮捕された。西大門刑務所での過酷な拷問によって20年9月28日獄死(死去した日は10月12日が定説だったが、今年2月修正された)。享年17歳。

[朝鮮新報 2004.4.5]