〈朝鮮近代史の中の苦闘する女性たち〉 烈士・柳寛順(下) |
3月3日の高宗の国葬に向けて、全国から人々がソウルに集まってきた。今まで地下組織で活躍してきた孫秉煕、崔南善ら33人の天道教、キリスト教、仏教の指導者と学生指導者を代表とする朝鮮独立運動家たちが、自主、独立を盛った独立宣言文を作成したのである。 また、独立宣言文と日本政府への通告書と、アメリカ大統領、講和委員に送る独立宣言意見書を普成社で徹夜して印刷した。6万枚の独立宣言文は、延嬉、普成、医学専門などの学校の代表者を通じ、学生たちに伝えられた。 鐘路以北は仏教の学生、以南はキリスト教の学生、南大門の外は天道教の学生、東京および上海にも代表を派遣した。 世界に強い影響 柳寛順も梨花学堂の学友6名と共に参加した。 3月1日午後2時に33人は、仁寺洞の朝鮮料理店、明月館支店で朝鮮独立宣言文を朗読して、万歳を叫んだ。 ソウル、平壌をはじめとして、独立万歳デモは全国に広がり、延べ200万人が参加する、全民族的な運動となった。 デモでたくさんの人々が犠牲になった。万歳と叫んだ人の両腕を憲兵は、日本刀で切り落とした。耳を削がれた人もいた。街頭で虐殺された人は、7909人、死者の数は10万人を超えるとも推定されている。 柳寛順は、このあとも3月5日、学生たちだけのデモに参加した。 日帝はこの事態におどろき、すぐさま学校を休校にした。 総督府から臨時休校の指令が下ると、すぐ学生たちは独立宣言文をもって帰郷した。柳寛順も天安市芝霊里にすぐ帰った。 教会と学校を訪ね、ソウルでの独立万歳運動の詳細を伝えた。キリスト教の伝道師趙仁元と金球應などの人士に会った。彼らは部落の有志を呼び集め、デモの日を陰暦の3月1日、陽暦の4月1日、アウネの市に人々が集まる日と決めた。これらを知らせるのろしをあげることとなった。柳寛順は9つの郡をまわり、各代表の人々と会い連絡をとった。 3月31日の夜、鷹峰に登り、たいまつに火をつけた。高々と上げられたたいまつに呼応して、24カ所の山々からのろしがのぼった。火は朝鮮の夜を赤々と照らした。 その時に柳寛順が祈ったことばが書き記されている。 柳寛順の祈り おお王よ神よ 明日挙行する各代表の人々に強い勇気と力を授けて下さい 栄養失調と劣悪な環境 4月1日(旧3月1日)正午、アウネ市場に人々は集まった。代表が独立宣言文を読み上げると、人々は隠しもっていた太極旗をいっせいに振り、朝鮮独立万歳を口々に叫んだ。約3000人の人々が集まった。 憲兵は、急な展開に天安に援助を要請し、人々を手当たり次第、銃や刀で殺した。 金球應も倒れ、柳寛順の父と母も殺された。柳寛順も逮捕され、その後ソウルの西大門刑務所に移され、裁判にかけられた。ソウルで7年の刑を宣告され収監された。 日帝は、柳寛順のこの闘いぶりにあわてふためき、人々から引き離すため、たたみ半畳、高さ1.5メートル弱の地下の独房の狭い所に押し込めた。立つことも、寝ることもできない。柳寛順の手を熱湯につけ、爪を剥がし、ジャッキのようなもので押しつぶし、あらゆる拷問にかけた。柳寛順はさらに衰弱していった。20年9月28日、ソウルの西大門刑務所で獄死した。 柳寛順の最後の言葉は「日本は必ず滅びる…」であった。朝鮮のジャンヌ・ダルクと呼ばれる烈士のあまりにも短い生涯であった。(高貞子、児童文学作家) ※柳寛順(1902〜20) 忠清南道天安郡並川面生まれ。梨花学堂(現、梨花女子大学)在学中の1919年3.1独立運動のデモに参加して、日帝によって逮捕された。西大門刑務所での過酷な拷問によって20年9月28日獄死(死去した日は10月12日が定説だったが、今年2月修正された)。享年17歳。 [朝鮮新報 2004.4.12] |