チョ・ウンリョン監督を悼んで |
3月になればチョ・ウンリョン監督と2人ではじめて大阪の地を踏んだ時から3度目の春を迎えます。
ちょうど今ごろ、北海道にある梅の木(チョ・ウンリョン監督を追悼するために植えられた)がいち早く春の到来を告げるために花を咲かせはじめていることでしょう。 去年の春、ウンリョンが30歳を迎えたばかりのことでした。監督があまりにも早くこの世を去ったため、彼女を知る友人たちの胸に刻まれた悲しみは、とても大きかったように思われます。友人たちに励まされて昨年の9月、ソウルの大学路で、私はウンリョンが残した足跡をたどるためにささやかな追悼映画祭を開催しました。その席で私たちは、みんなの愛する妹であり、親しい友であったウンリョンが、最後の3年間、胸に抱き続けてきた小さな夢をかいま見ることができました。その小さな夢を、残された私たちみんなで分かち合わなければならないと思い、このように、またふたたび大阪の地でチョ・ウンリョン監督をしのぶささやかな席を設けることになりました。 チョ・ウンリョン監督には、ひとつの小さな願いがありました。 日本に来た彼女が、厳しい環境を耐え抜き、60年の歳月を生き抜いてきた在日同胞との出会いを通して抱くようになったひとつの願い―それは1日も早くこの方たちが自分の故郷を自由に往ったり来たりできる時代が来るように、自身が小さなかけ橋になろうということでした。 しかし、半世紀以上も続いた分断の悲劇の中で、お互いの心を塞いでしまった不信の壁はとても厚いものでした。小さな願いひとつを心に抱く自体が、とても大変であるということが、21世紀を生きるわが民族の痛みなのです。 若くして才能を認められ、順調に映画の道を歩んできた彼女でしたが、分断の壁の前では、彼女の純真さも手痛い挫折を味わうしかなかったのです。しかし、チョ・ウンリョン監督は、一瞬たりとも自分の夢を捨てることはなかったのです。どんな困難な状況に追い込まれても、彼女が決して夢を捨てることができなかったのは、大阪から北海道までウリマル(母国語)を習い、何よりも友だちを大切にすることを学んでいる、ウリハッキョ(朝鮮学校)の子どもたちがいたからなのです。この子たちの澄んだ瞳が語りかけてくれることが、チョ・ウンリョン監督の夢を支えた唯一のよりどころだったのです。ソウルで私たちは、チョ・ウンリョン監督が見たその子たちの澄んだ瞳を目の当たりにしながら、民族とは何なのか、そして統一はどうあるべきなのかを感じ取ることができました。 そしてまた、ここ大阪の地で、ウンリョンが抱き、私が抱き、これから多くの人々が抱くであろうひとつの願いを、みなさんと一緒に分かち合いたいと思います。半世紀以上も守り続けてきた、ウリハッキョ(朝鮮学校)が韓国のひとりの若い女性に、どんな夢を抱かせてくれたのかをみなさんに見ていただきたいと思います。(金明俊) [朝鮮新報 2004.4.19] |