〈朝鮮歴史民俗の旅〉 タバコ(2) |
有益説が一人歩きする中でタバコの害は拡大していた。
一つは火災。光海君の時代、釜山の東來倭館が、タバコの火が原因で2回も大火に見舞われた。江華島の要塞では、タバコの火の不始末で武器貯蔵庫が大爆発し多くの人命を失った。火災は地方の都市や村でも度々起き貴い人命と財産を奪っている。 より深刻だったのは経済に与えたダメージ。タバコの生産と流通は高麗末期に起こった綿花のそれに匹敵していた。綿花は試験栽培に成功すると、瞬く間に全国に普及し服飾文化を変え、各地に市場を起して経済に活気を与えた。タバコ産業も同様であった。 しかしタバコの増産は、穀物の生産量を極端に減少させるという、皮肉な結果をもたらした。先祖伝来の肥えた農地がタバコ畑に変わってしまった。一度タバコ畑に変えられた農地は地力を失い、回復に数年も要した。政府は毎年食糧不足に悩まされ、何度もタバコ禁止令の発布を試みたが、ついには1回も発せられなかった。禁止令で困るのは愛煙家であった政府の役人たちであったからだ。 朝鮮人には独特の喫煙文化がある。常民が両班の前で、若者が大人の前でタバコを吸ってはならないということ、つまり喫煙行為を社会的地位と結びつけて考える、一種の喫煙権威主義である。 それでは、この喫煙権威主義がいつ頃、どんな理由で生まれ、根づいたのか。 タバコが朝鮮に入った頃、喫煙にはこれといった決まりはなかった。「虎がタバコを吸っていた大昔」という慣用句が朝鮮の民話の枕ことばによく使われるが、この表現は、今は不自由だが、昔は身分に関係なく自由に吸っていたというある時代の思いが込められている。そのタバコがある日から厳しい法のもとに置かれてしまった。 実学者・柳得恭は「京都雑記」の中で当時の様子を次のように書いた。 「卑賤の者は高貴な方の御前でタバコを吸ってはならない。朝官の市井での喫煙は厳しく慎むべきことである。宰相ならびに弘文館要人が赴く所での喫煙は禁止すべきである。もしタバコを口にする不届き者がおれば、ひとまずその現場で逮捕して近隣の人家に拘留し、後にあらためて罪状を問うてこれを罰しなければならない」 喫煙行為が社会的地位や権威と結びつくのは、タバコが庶民の間に広く普及し、薬用としてではなく、嗜好品として定着し始めた時期と重なる。17世紀の後半から18世紀初頭の頃だ。 当時の朝鮮は、倭国に次ぐ清国の侵略で、乱れた社会秩序を速やかに回復し、儒教的身分制度と倫理軌範の再構築が求められていた。朝鮮王朝は儒教の礼学を奨励し、父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信を、人の守るべき5つの道徳と定め、それを社会の軌範に据えることで、無秩序を克服し綱紀粛正を図ろうとしていた。 このような社会的風潮のなかで、タバコにかかわるある事件が朝鮮王朝のなかで起きていた。その顛末は次のようである。 「ある時、集賢殿において国王参席のもと会議が行われていた。朝臣たちはキセルを加え、あるいは手に持ち、白熱の議論を交わしていた。ところが、甲論乙駁の勢いあまってか、一人の朝臣のキセルから火が飛んだ。火は国王に飛び移り御衣を焦がした。そして、いく日が過ぎてまた会議が開かれた。参席の朝臣たちはあいも変わらずキセルをふかしていた。煙はもくもくと上に昇り国王の玉座に立ち込めた。国王は煙にむせび咳き込んだ。この時、一人の大臣が立ち上がり叫ぶように言った。 タバコの煙が国王を苦しめたのは事実であったらしいが、本当の狙いは喫煙行為を礼学の思想と結びつけることで、王権の強化をもくろんでいたのである。 ではなぜ、タバコに礼学の精神なのか。嗜好品はタバコに限らず、酒やお茶もあった。だが、それらに対しては、目上の前では顔をそむけて両手でいただくといった作法があっても、タバコのような厳しい決まりはない。 タバコが権威主義と結びつくのは喫煙行為の特性にあった。煙を吸い込み吐き出すという行為はいかにも尊大である。しかも喫煙者は、相手に不快感を与えながらも、それを繰り返す。吸い方によっては相手を侮辱し、せせら笑い、罵倒する行為にもなりうる。 また喫煙にはキセル、タバコ入れ、タバコ盆が伴うが、これらの必要品が権威の象徴となりうるのである。キセルに対する両班たちのこだわりは半端でなかった。白銅に金、銀の象嵌をほどこした物まであった。 キセルが権威の象徴でなくなったのは近代に入ってからである。1894年、門閥を廃止する施策の一つとして、「キセルは等しく三尺未満とする」という法令が発表され、これを境に権威主義は消えていくことになった。しかし、キセルの威力は萎えたが、「親の前でタバコを吸うべからず」の風習は、不文律となって今日まで固く守られている。(朴禮緒、朝鮮大学校文学歴史学部非常勤講師) [朝鮮新報 2004.4.26] |