〈人物で見る日本の朝鮮観〉 勝海舟 |
幕末期における勝海舟(1823〜1899)の朝鮮への関わり方について、「その連帯の思想と侵略思想を同居させた最初の人物こそ勝海舟であったと思う」と、私は「日本の朝鮮侵略思想」で書いたことがある。 貧乏旗本の子として生れた海舟が、徳川幕府の実質総理として、幕府の幕引き役を担う歴史的人物になるのは誰知らぬ話であるが、その海舟が対朝鮮政策において「横縦連合」という連帯策と「征韓」という侵略策の間で揺れて、ついには海舟本来の連帯論が変質してゆくのだが「しかし、海舟の連帯感は後に、時として表出する」と前出の本の最後に書いた。この項では、その海舟の朝鮮に対する連帯感を主とする彼の朝鮮観を見ようとするものである。 維新後の海舟の朝鮮観、アジア観を知るには「海舟日記」「建言書類」「海舟言行録」「清譚と逸話」「氷川清話」「海舟座談」等々を読めばほぼ掴めるものと思う。 海舟の「日記」明治17年2月10日条に「朝鮮人金玉均、中村三保三郎、通弁人香坂某」とある。当時、日本で300万円の借款工作中だった金玉均が勝海舟を訪問したのである。何を話したのか、海舟、玉均ともに記したものはないが、思うに玉均は朝鮮近代化への助言を聞いたことであろう。「氷川清話」によれば、日本亡命中の金玉均が、朴泳孝と同道してきたことがあったという。明治24年中のことと思う。「私は『ロシアはよりなさい』といったら、金玉均は、おれの言葉を誤解したとみえて、ひどいことを仰せられるといった」とある。この時期、海舟は朴にヒモ付きでない多少の資金援助をしていた。 また晩年、大院君との交流について「大院君李昰応も、たうとう死んでしまったノー。この人については種々の批評もあるが、とにかく一世、偉人だ……。先年同君から二枚の紗に自から懸崖の蘭を画いて、八十老石道人と落款したのを寄贈せられたから、おれ 昨年七月頃であったか、返礼にこの詩を贈った。 世事の半ばは児戯、豈に盲評を作すに堪えんや、長白山頭の月、独り緑江(鴨緑江)の清きを照らさん」(「氷川清話」、原詩は漢詩)。 勝海舟の対朝鮮、対清連帯感が、より明確な形で現れるのが日清戦争前後期である。 「日清戦争はおれは大反対だったよ」(「氷川清話」)というが、その反対意見を宮内省内で伊藤博文にも伝へている。また、一詩を作った。「隣国、兵を交うるの日、その軍、更に名無し 憐れむべし鶏林(朝鮮)の肉、割きて以て魯(ロシア)、英(イギリス)に与う」。向山黄村が其軍更無名はひどい、すでに宣戦の詔勅も出ている、と注意したが、「これは別の事だ」とはねつけた。 10年後の日露戦争の時には、内村鑑三、幸徳秋水、堺枯川らの非戦論が眼をひくが、日清戦争時は、政治家も軍人も、新聞人、言論人、一般民衆もそれこそ国を挙げての戦争狂熱に吾を忘れていた。 内村鑑三も新聞や雑誌に「日清戦争は吾人に取りては実に義戦なり」と書いていて、福沢諭吉も「日清戦争は文明と野蛮の戦争なり」と大いに、世論を煽って、正義漢づらをしていたものである。 この狂熱の時に、独り勝だけは「その軍、さらに名(大義名分)なし」と日清戦争の意義そのものを否定したのである。 この姿勢は、戦争が勝利した後にも一貫した。彼に韓、清に対する蔑視感はないのである。 「日記」明治28年6月1日に「松方(正義)を訪う。朝鮮処分、遼東の所置、愚存書を示す」とある。日記にいう愚存書、すなわち「朝鮮所置愚説」の冒頭に言う。「朝鮮の所分は、その初め既に誤る。如何ぞその終りを宜しく成さん。もし今日の如くにして年を経ば、隣国必らずその極論に云わむ。『日本の所置は、東洋の治安を害す。然るべからず』と」。また、明治29年2月に「東邦問題に就て内閣諸公に与うる書」という建言書を提出し、朝鮮について「ただその便宜の港を占め、東海貿易の基礎を固めば、この国の如き自から立つべし。故にいう、もし朝鮮を救わんとする者は、よろしく東洋の基を固むべしと」と述べる。 海舟ははっきり認識していた。内閣諸公の、口では朝鮮独立の扶助と言いつつ、実質は朝鮮領有化という侵略政策を着々と進めていることを。故に辛辣に伊藤や陸奥、その他の大臣、または福沢などを固有名詞つきで批判したのである。 では、その海舟は、どのような朝鮮認識を持っていたのか。「朝鮮といえば、半亡国だとか、貧弱国だとか軽べつするけれども、おれは朝鮮も既に蘇生の時期がきていると思うのだ。……、しかし朝鮮をばかにするのも、ただ近来のことだよ。昔は、日本文明の種子は、みな朝鮮から輸入したのだからのう。特に土木事業などは、ことごとく朝鮮人に教わったのだ」(「氷川清話」)。 勝海舟が当時の滔々たる朝鮮蔑視の俗流に与しなかった根底には朝鮮や清国の人々との交流だけでなく、その文化に対する深い敬意と他の追随を許さぬ透徹した史眼があったからである。(琴秉洞、朝・日近代史研究) [朝鮮新報 2004.4.28] |