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シルクロード 5つのルート踏破、張允植さん(68)

 「月日は百代の過客にして…」と詠んだのは「奥の細道」を著した松尾芭蕉である。古今東西、時空を超えて人はひたすら旅に憧れ、魅了され、生きてきた。

 このほど「古代シルクロードと朝鮮」を刊行した張允植さんも少年の日から胸に描き続けたシルクロードへの見果てぬ夢をついにかなえた1人。

少年の夢叶う

 張さんは東大阪・布施で電線関係の付属製品会社を経営する実業家の顔をもつ。かつては在日本朝鮮人大阪府商工会副理事長として、同胞商工人のネットワーク形成にも尽力した。

 そんな張さんが遥かな旅の夢に目覚めたのは9年前、北京で偶然出会った知人と食事をした際にかけられた一言だった。

 「2週間後にシルクロード40日間の旅に出かけるんだけど、張さんも一緒に行かないか」

 95年9月。運命の一言が、学生時代、詩作に熱中し、山岳部に所属していた張さんの好奇心と冒険心を揺さぶったのだ。「急な誘いだったが、行きたいという気持ちに突き動かされてしまった」。

 今も多くの詩を発表し続ける張さんだが、東京朝高1年で自ら作った生徒会機関誌「学生旗」に2年生の時発表した詩「流れ」(朝鮮語)がある。その冒頭を紹介しよう。

 「流れよ/清らかな流れよ/真白い泡を包みながら/真っ黒い雲がさす/あのー海へ/流れいく流れよ」 少年の心に広がる大きな夢と強い志が全編に脈打っているかのように感じられるではないか。

「未知の世界」への扉

 とはいえ、現代でもシルクロードの旅は容易な道程ではない。シルクロードの旅は大きくわけて5つのルートがある。@中国の北方、天山山脈の北側の天山北路A天山の南側の天山南路(西域北路)Bタクラマカン砂漠の南側の西域南路Cパミール・ルートDチベット・ルート。

 このルートを5年間、約170日を費やして踏破したのだ。旅の終焉はチベット。99年の晩秋だった。

 「ラクダから落ちたり、馬に振り落とされたり、高山病に冒されながら、昼夜の気温差が80度にもなろうかという砂漠を来る日も来る日も、気が遠くなるほど彷徨う日々だった。旅先で病に倒れ、妻が北京まで迎えに来てくれたこともあった」

 ひたむきに旅し、詩作し、学ぶ日々。そうやって得た「自己の確かな眼」がとらえたのは、それまで未知の世界だったシルクロード史に光彩を放つ古代朝鮮三国の英雄たちとの思いがけぬ出会いだった。しかし、それは偶然の幸運が呼び込んだもの。2回目の旅の報告を恩師や知人にハガキで送った時、東京朝高3年時代の担任・魚塘先生から一本の電話が。

 「君は慧超という人物を知っているか」

 「新羅の僧・慧超とシルクロードとの関わりには深いものがあるぞ」

 約50年も前の卒業生への恩師の的確なアドバイス。それが後の旅に豊穣な実りをもたらしたのだ。

 「それからというもの、旅に出かけては、帰って文献を探し貪るように読破していった。シルクロード関係だけでも50冊程になる。そこで疑問や新たな発見にぶつかると、また、現地で確認するという繰り返し」

 祖国を遥かに離れて、俊剣な行路で築かれた古代朝鮮三国の人たちの偉業。彼らへのくめども尽きぬ愛と興味が張さんの心を虜にしてやまなかった。

 「唐の安西節度使となってタシュケントを攻略したのは、高句麗の将軍・高仙芝。高句麗滅亡後も安市城で最後まで戦った高句麗の勇将・高舎鶏の子息である。また、吐蕃と突厥(トルコ系遊牧民)の攻防戦で数々の軍功をあげ、不敗の将軍と称えられながら刑場の露と消えた亡国百済の遺将・黒歯常之の英雄譚と悲劇。そして、8世紀に中国、インド、イラン、アラビア、シリアなど37カ国を徒歩で巡礼し、大旅行記『往五天竺国伝』を著した慧超の不朽の業績。彼らが通ったであろう歴史の地を歩く時にこみあげる感激と誇りを抑えることはできなかった」

 張さんは旅装を解く間もなく、壮大な「海のシルクロード」の旅へと心を躍らせている。(朴日粉記者)

[朝鮮新報 2004.5.10]