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高麗人参余話(37)−加工(2)

 宋(960〜1126年)の使臣、徐兢が著述した高麗図經には「高麗人蔘には生蔘と熟蔘の二種類がある」と書かれていて、この時期すでに加工品である熟蔘が開発されていて宋の国で知られていたことを示唆している。生蔘は人蔘の水分のため腐りやすく長期間の保存が効かないので、人蔘を乾燥して乾蔘とし生蔘の欠点を補うように工夫した。乾燥による水分の減少は単純ではあるが微生物の汚染、増殖を防ぐ最も効果的な方法である。しかし、乾蔘でも湿度の高い夏には水分を吸収して腐ったり、虫に喰われたりして完全な腐敗防止の対策にはならなかった。その後、人蔘を熱湯に漬けてから乾燥すると人蔘の内部が糊化されて固くなって乾燥される事が分かり、長期保存ができて取り扱いやすくなった。さらに加工法が研究され人蔘を水蔘(生蔘)のまま乾燥した白蔘と蒸して乾燥した紅蔘などの原型維持人蔘になった。

 朝鮮王朝2代目の王、定宗(1398〜1400年)以降人蔘の需要が増え、紅蔘製造が盛んに行われるようになった。宣祖(1567〜1608年)39年(1606年)には把蔘(人蔘を蒸して乾かしてから大小長短など形別に括ったもの)の製造を禁止し、路引(昔の旅行証明書)を発行して個人的な商いを規制して人蔘取引を国が管理し、その収益を独占するようになった。「韓国」のテレビドラマ「商道」には湾商、任相沃が清との人蔘取引で巨富を築き時の寵児に伸し上がる様子がおもしろく描かれている。人蔘が貴重な外貨獲得の輸出品目であるのは昔も今も変わらないようだ。

 純宗2年(1908年)には大韓帝国法律第14号で紅蔘専売法と同施行令が交付され紅蔘の専売制度が始まった。人蔘を簡単に利用するために初期の加工品には粉末製品、抽出物の濃縮製品である人蔘精が開発され主流をなした。(洪南基、神奈川大学理学部非常勤講師)

[朝鮮新報 2004.5.14.]