〈朝鮮歴史民俗の旅〉 パンソリ(2) |
パンソリの歌い手は広大と言った。広大は賎民階級の出身で、パンソリの歌い手になる以前は巫女の手伝いをする傍らで、人形劇や仮面劇、その他の雑技をこなしていた。ところがパンソリが出現し大衆の人気が高まると、歌い手としての素質を身につけていた彼らはいち早く時流に乗った。喉に自信のあるものは歌い手に、そうでないものは鼓手となって各地に出向いた。
彼らは身軽であった。小道具といえば扇子と太鼓のみ。一般庶民を相手に市場の隅で演じた。パンソリが来ると聞けば、市場は人波をなしてごった返すほどだった。実学者・丁茶山はその様子を次のように書いた。 「全国津々浦々、広大一座のとどまる村では彼らの歌声が聞こえ、軽業師の曲芸にヤンヤの拍手が湧いた。口に出しては言えない抑えられた庶民のうっ憤を、彼らが歌にかこつけて吐露してくれるので、その拍手は熱烈きわまりなかった」 パンソリの公演は連日連夜繰り返され、聴衆は釘づけで見守った。当時の記録には聴衆の表情が克明に描かれている。 「横暴な悪代官・卞学道の無法ぶりが歌われるときは、聴衆は歯ぎしりして口惜しがり、春香が獄門に捕らえられてため息をつくくだりでは、聴衆は親を亡くした喪主のようにさめざめと涙を流すのであった。しかし、ついに暗行御使となって李夢龍が登場する場面になると、拍手喝さいがわき起こり足を踏み鳴らす音で歌い手の声はかき消された。そして、最後の再会の場面を迎える。聴衆は老若男女が総立ちとなって嵐のような歓声が山野にこだました。歌い手と鼓手のもとに葉銭(銅貨)が蝿の舞うように投げられ、時には米袋や野菜、果物までが投げられた」 パンソリは数年の間に朝鮮南部一帯に普及し、市が立つ場所ではどこでも行われるようになっていった。パンソリは市場の風物詩となっていった。 庶民が騒げば豪族や両班とて無関心ではいられない。しかし、面子があって市場に足を運ぶわけにはいかなかった。そこで彼らは広大たちを客間に招いて演じさせた。庶民ばかりではなく高位官僚や王侯貴族の心も引きつけていたのである。次の話はその一例である。 李奈致と名乗る名唱がいた。ある日、彼はその頃権勢家で有名だった某宰相の豪邸に呼び出された。宰相は、地べたにひれ伏しておののく広大に次のように命じた。 「余は広大が人をよく笑わし泣かすと聞くが、それは下々の者たちがそうであって、士大夫にはあたらないはずである。もしも、そのほうが余を泣かせたら千金の賞を取らせよう。そうでなければ打ち首にしてつかわす。打ち首を覚悟して歌うがよい」 名唱・李奈致は、この死を賭けた申し出に潔く応じ、得意の「沈清歌」を歌って聞かせた。歌は静かに淀みなく進み、いよいよクライマックスに達した。盲目の父のために身を売る沈清が、海路の荒波を沈める生贄になるため、心ない船乗りたちに引かれていく下りである。 「アボジー」。切なく泣き叫ぶ娘の声と、あわてふためく盲人の悲痛な声が歌い手の喉から発せられると、宰相の目から大粒の涙がこぼれ落ち、むせぶような嗚咽が続いた。賭けはもちろん広大が勝ち、彼は約束どおり千金の賞にあずかった。 19世紀はパンソリの黄金時代であった。パンソリは国民的芸能となって各地で盛んに行われた。そのメッカとも言われる全羅道全州に、名唱と呼ばれる各地の広大たちが呼び集められ、有名な「全州大私習」も行われている。ここで名を馳せたものたちは、王宮に招かれ国王の御前で演じ、「同知」「先達」の職級を授かっている。高宗王の誕生日に招かれた名唱・李東伯などは正三品・通政大夫を授かっている。 パンソリが国民的芸能の域に達するには、広大の活動を支えた郷吏など下級官吏の存在を忘れてはならない。彼らの中には両班広大と呼ばれた歌い手がいた。彼らは両班でありながら、パンソリがもはや卑しい広大の歌でなくなり国民的芸能と認知されるなかで、広大の良きパトロンとして登場していた人たちであった。 彼らは経済的なゆとりもあり、詩文や音律にも通じていたので、庶民的感覚と巫俗的感性だけに頼っていた広大たちの創作の質を高めるうえで大きな助けとなった。 パンソリを国民的芸能に育てあげた功労者・申在孝も下級官吏の出身であった。彼は忠清道高廠の人で学問にも音楽にも通じていた。詩人・作曲家でもあったので多くの作品を残しているが、その本領は創作ではない。パンソリを理論の面から追求して体系化し、広大たちによって作られた荒削りの作品を、不朽の名作に磨き上げた。「春香歌」「沈清歌」「パク打令」「トキ歌」「赤壁歌」「ピョンガンセ打令」は、彼の手によって改訂推敲されたものだ。彼は社会の底辺にいた広大たちの作品を綿密に検討し、諧謔・風刺・エロティシズムという庶民の興味と、両班の品格ある嗜好をうまく組み合わせて、それらをいずれの階層にも偏ることなく完成させた。 彼は自分の邸宅をパンソリの練習場に改造し、「桐里精舎」と呼び多くの歌い手を招いて指導した。中でも妓生・彩仙を、「萬緑叢中紅一点」といわれるほどの一級の女流歌手に育てあげ、女性たちのパンソリ界への進出に道を開いた。(朴禮緒、朝鮮大学校文学歴史学部非常勤講師) [朝鮮新報 2004.5.17] |