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〈朝鮮歴史民俗の旅〉 シルム(1)

 シルムとは日本でいう相撲のことである。その語源は諸説あるが「ヒムギョルム」がもっともそれらしい。朝鮮語で「ヒム」は力、「ギョルム」は競うことであるから、シルムの元は力くらべであったらしい。

 シルムに類するスポーツは、世界各国で大昔から行われていた。例えば、5000年前の古代バビロニアの遺跡からは、取り組んだ姿の人形の青銅の置物が発見されており、また2500年前エジプトのナイル川横穴にある壁画には、相撲かレスリングのような絵画がたくさん描かれている。

 相撲は日本の国技であるが、朝鮮人のシルム好みは日本に負けずとも劣らない。18世紀の実学者・柳得恭は、当時の風俗について述べながら次のように書いている。

 「ソウルの若い連中は南山の麓でよくシルムをする。2人が相対して膝をつき、右手は相手の腰をつかみ、左手は相手の内腿に回し、一気に立ち上がって勝負を決める。内股にかけたり外掛けにしたり、首根っこをつかんで放り投げることもある。このような力相撲は中国でも行われているが、あちらの人たちはそれを高麗技と呼んでいる」

 シルムは日常的に行われたが、春の端午と秋の秋夕は全国すべての地域で、全国民の関心のなかでいっせいに行われた。

 もっとも有名なシルム場は、ソウル南山の倭城台と北山の神武門の裏、平壌の永明寺、慶尚道の金山であった。これらの場所には、各地の名のある壮士といわれた大物の力士が登場し力と技を競いあった。

 競技はまず少年の部から始まって青年の部に進み、いよいよ名のある壮士の登場となるとシルム場は一気に盛り上がり、観客席は大波のように揺れ動いた。そして試合が終わって勝者が決まると、手作りの籠に壮士を乗せて駆け回り勝利を祝した。

 優勝賞品はどこも牛一頭が定番であった。それを目当てにしていた者もいたが、本当の狙いは勝利を出世の踏み台にすることであった。というのは、朝鮮の王朝政府は名のある壮士たちを国王護衛の親衛隊に抜擢したからである。身分が卑しくともシルムで出世した者は少なくない。五衛の副司直・安思義、政院吏・金維がそのような人物であった。壬辰倭乱の戦いで翼虎将軍と呼ばれた金徳齢も全羅道・長城邑のシルム優勝者であった。

 17世紀の初頭。朝鮮王朝は清国の侵略に屈し、王子・鳳林大君(後の孝宗王)が人質に捕らわれて清国に赴いた。その時、鳳林大君に随行した武官は金如俊。彼は壮士出身の軍人であった。彼は彼の地で行われた相撲競技で、清国一の力士を投げ飛ばして死に至らしめている。競技場のことであるからやむをえないことであったが、相手は大国の筆頭力士、両国の関係が微妙に揺れていた時期であったから、それこそ一触即発の事態になりかねない事件であった。

 中国の東北地方の延吉省通溝に角蹄塚と呼ばれる古墳がある。高句麗のもので2世紀ごろ築造されたものである。その古墳の壁画にシルムの絵が描かれている。2人の力士ががっぷりと組んで押し合っている光景である。

 この国のシルムの歴史はさらにさかのぼることになる。古朝鮮の時代に未分化状態の格闘技があって、それが高句麗の時代に2つの種類に分化し、一方がシルムとなり他方はスバッキ(テコンドー)となって現代に至っている。高句麗の古墳からはシルムとともにスバッキ競技の壁画も見られる。

 高句麗には「先人」というエリートの軍人集団があって毎年3月と10月の大祭に武勇を競ったが、剣舞やスバッキとともにシルムも競技のなかに含まれていた。

 高句麗の「先人」制度を取り入れて「花郎団」を創設した新羅も、武勇をエリート選抜の基準にしていた。

 シルムが武芸として確立したのは高麗の時代であった。高麗王朝は軍事力としての将兵のシルム技を大いに奨励した。シルムの力士を勇士と呼び、競技大会には国王自らが参席して勝者をたたえた。忠恵王にいたっては政治のことは二の次。宮廷の中庭にシルム場を設け、屈強な臣下を相手にシルムに明け暮れていた。後に「高麗史」はそれを国王にあるまじき行為であると戒めている。

 日本の相撲の原点はどうであったのだろうか。この国にもシルムに似た力業が古くから行われていた。それは、古墳時代の遺跡から出土した須恵器にかたどられた相撲人形によっても確認される。当時はスポーツや娯楽でなく、神々の思し召しをうかがう神事として行われていたようである。

 相撲が史実として初めて記録されたのは、西暦642年(皇極天皇)、百済の使者をもてなすために、宮廷の衛士に相撲をとらせたという記述で、「日本書紀」に見られる。衛士にとらせたということは相撲が武芸であったことを現している。日本の相撲の原点を探るうえで重要な手がかりがある。

 相撲の神様が日本にいてそれが朝鮮のシルムとかかわっていたらしい。記紀によれば、大和朝廷の初期に武内宿禰という伝説上の人物がいた。彼は多方面にわたって活躍するのだが、とくに武勇にすぐれていたという。蘇我、葛城、巨勢、平群などの先祖であったというから、彼は明らかに朝鮮半島からの渡来人である。その武内宿禰が日本相撲の神様であるという説が、早くから日本の研究者の中にあった。(朴禮緒、朝鮮大学校文学歴史学部非常勤講師)

[朝鮮新報 2004.5.22]