〈高句麗壁画古墳世界遺産登録〉 高句麗文化は日本文化の源流 |
6月28日から中国・蘓州で開催される予定のユネスコ第28回世界遺産委員会で、平壌の「高句麗壁画古墳」が世界文化遺産に登録されることになるだろう。これは朝鮮だけでなく、人類の貴重な文化遺産を後世に残していくうえで大きな意義をもつ。「高句麗壁画古墳」の世界遺産登録を祝う日本各界の声を随時紹介していく。 シルクロード・高句麗文化の日本最初の到達点、飛鳥寺。4月の終わり、色とりどりのつつじや可憐なレンゲ草、黄色い菜の花が咲き誇る明日香の里を自転車で走り抜けながら寺をめざす。さわやかな春風が心地よい。3年前、ここに李柱伯朝鮮文化省文化保存管理局長らを案内した日本画の平山郁夫さんご夫妻らと訪れたことがあった。 朝鮮からのお客を山本宝純住職が、「飛鳥寺は聖徳太子の人間形成や仏教面の指導に携わった高句麗の高僧・慧慈が住した由緒ある寺。伽藍配置も平壌の清岩里廃寺の一塔三金堂様式をモデルにしたもの。古代日本に豊かな恵みをもたらした高句麗の恩を片時も忘れたことはありません」と温かい言葉で出迎えてくれたのだった。 この間、日本は拉致問題をきっかけにしたメディアあげての北バッシングで、騒然たる雰囲気にあった。しかし、今回も山本住職は変わらぬ笑顔で、高句麗壁画の世界遺産登録の動きを心から喜んでくれた。 「飛鳥寺は高句麗とは特に縁が深く、本当におめでたいことです」
住職は、飛鳥寺が日本最初の本格的寺院であり、当時、朝鮮半島から伝来した仏教文化の総合センター的な存在であったため、専門の学問研修道場となっており、聖徳太子もたびたびこの道場に通って、仏教の研鑽に努めていたと語り、とりわけ、聖徳太子と高句麗の深いきずなについて話し出した。 「高句麗の高僧・慧慈法師は推古天皇3年(595年)、百済の恵聰とほぼ同じ頃高句麗の嬰陽王の命によって来朝した。太子の仏教の師として、また、政治外交の顧問として若き摂政・聖徳太子をよく導き、20年間、日本に住んでいた。高句麗からの渡来僧の中の第一人者といわれ、三宝の棟梁、三宝の明星と称せられた。恵聰とともに飛鳥寺に住み、飛鳥寺の建立にも深くかかわった」 高句麗の大興王が黄金320両を飛鳥寺建立のお祝いとして送ったと飛鳥大仏の後背の銘文に刻まれているが、これも「高句麗と日本の友好関係を深めるため、慧慈法師が尽力されたもの」と住職は語る。 また、百済からの僧や技術者たちによって、飛鳥寺のプランが大和にもたらされたと指摘、「飛鳥寺は高句麗、百済、日本という当時の東アジア3国の共同合作によって建てられた国際的な寺であった」と住職は誇らしそうに語る。 「まさに高句麗文化は日本文化の源流であり、古代日本の黎明期に多大な影響を及ぼした。その古墳壁画は日本古代史の貴重な証人でもある。朝鮮半島との深いきずなを示す高句麗古墳壁画が世界遺産として登録され、後世の人々にその素晴らしさを伝えていってほしい」 馥郁たる飛鳥文化の揺籃の地で先代住職の子息として、飛鳥寺に生まれ育って65年。今、住職が心を痛めているのは、高句麗を故地にもつ朝鮮と日本との間に国交がなく、両国の間に緊張関係が続いていることである。 「戦前、日本は脱亜入欧を掲げ、東アジアを軽視するよう国民を教育した。その過ちを直視して、歴史の事実をベースに据えて、隣国との平和な関係を築いていかなければならない」 住職はこんな時だからこそ、かつて仏教が国境や民族の壁を楽々と超えて伝播したように、日朝が互いに警戒心を捨て、融和の心を持って人と人が許し、結び合う時だと強調する。「日朝間の平和交流こそ、高句麗の先人の仏恩に報いる道だと思う」と力を込めた。(朴日粉記者) [朝鮮新報 2004.5.24] |