〈東アジアの藻のはなし〉 能登・富来町の朝鮮文化 |
アイヌと昆布 日本人は海藻をよく食べるし、ホンダワラなどは身を浄めたり、神事にも使われている事は前回述べた。海藻食文化は東北北部で希薄となり、さらに北海道のアイヌは基本的に鮭を主食とする狩猟民族で、川魚、ヒグマ、エゾシカ、キタキツネ、それに山菜や木の実などを食べていたが、昆布以外の海藻は殆ど利用しなかった。昆布については、第44代の元正女帝元(715年)10月29日、蝦夷(アイヌの事)の須賀君古麻比留が大和朝廷に調として物納する話がある(続日本記)。しかし、昆布を意味するアイヌ語のコンプは漢語から和語となった昆布由来の外来語で、アイヌと昆布の縁は、大和朝廷に納めるために採取したのが始まりと思われる。 一方、朝鮮半島では日本以上に海藻を食べ、祭事のお供え料理としてもホンダワラ等を欠かせない家は多いようだ。したがって、日本の海藻食文化は基本的に朝鮮半島、あるいは中国大陸や東南アジアなど、西方からの渡来人によってもたらされた文化であろう。 渡来人の足跡
さて、石川県の能登半島には、朝鮮半島北部、旧満州、ロシア沿海州を領土とした渤海(698〜926)の使節が訪問し、滞在した事で知られる富来町の福浦がある。地形は、大きな湾の中に更に二筋の細長い水路が奥に伸び、二重の湾となっている。二股に分かれた手袋状で、多分、袋が訛ったのであろう、昔は福良と呼ばれた。大きな内湾は幅70メートル、長さ約350メートル、内湾から外洋迄は約700メートルもある。三方が山に囲まれ風を防ぎ、造船に欠かせぬ樹木もある。水深も湾の入口で20メートル、湾奥で15メートルもあるらしく、まさに北陸随一の天然の良港で、北前船の時代には千石船が入り、女郎屋も並び、栄えた。 高句麗時代(紀元前後〜668)や、源氏物語の主人公の光源氏の人相を占ったと言う高麗人(918〜1392)も、福良に来たのかも知れない。そこで、もし日本の海藻食文化の起源が朝鮮半島ならば、福浦周辺には海藻食文化が豊かに残っているのではないだろうか。日本ではほとんど食べないが、朝鮮半島でよく食べ、藻の語源ともなったホンダワラを、福浦の人々は食べるのではないだろうか、と考えて私は最近福浦港を訪ねた。 土地の今本ふよ子さん(77)によれば、福浦ではギバサ(ホンダワラ)を洗い、茹でて緑になったのを刻み、味噌、柚、砂糖、酒粕を入れ、すり鉢で混ぜ、銀紙に包んで貯蔵し、暖めて食べる。また、茹でて酢の物にする。実際、これらをご馳走になったが、おいしくて、酒の肴にも良い。韓国では、ゴマ油と塩で炒め、肉などを入れて吸物にしたり、キムチにして食べていた。調理法は違うが、福浦にホンダワラを食べる文化があったのは、予想どおりであった。 福浦では、他にモドコ(モヅク)やクロモも酢の物にし(寒中がおいしい)、少し固いサガリハバ(ハバノリ)や柔らかいヂハバ(ホソクビワタモ)をワカメ同様に乾燥させてご飯に振りかけたり、味噌汁に入れて食べる。また、イワノリ、テングサ(マクサ)、エゴノリ、イギスなどを寒天にしたり、おつゆに浮かして食べ、アオサ(アオノリ)も食べる。 また、土地の古老で郷土史家の瀬戸松之氏に案内していただいたが、福浦港には猿田彦神社、魚取り神社(門司の和布刈神社の分社)、金比羅神社の三社があり、隣の志賀町に住む、渡来系の素都家が代々宮司を勤める。現当主の素都益憲氏は44代目と言う。 富来町には他に八幡神社もあり、宮司は曽原家。現当主は23代で、やはり朝鮮半島出身だそうだ。1代30年とすると、素都家は1300年以前の飛鳥時代か奈良時代に逆上り、おそらく、ソホリ、ソハラ、ソフ、ソツはいずれも韓国の首都ソウルと同語源で、都を意味すると考えられるから、素都家、曽原家は、朝鮮で中国式の一字漢字の姓が使われる以前の古い豪族の家柄で、能登でも勢力を保ってきたのであろう。 このように、海藻食文化や古い神社の由来を調べると、古代朝鮮と日本との関係が非常に濃密だったことが明らかになってきて興味深い。(濱田 仁、富山医科薬科大学医学部保健医学教室、農学博士) [朝鮮新報 2004.5.28] |