〈人物で見る日本の朝鮮観〉 志賀重昴 |
志賀重昴(1863〜1927)は地理学者、政治家、ジャーナリスト、教育家という多面的な顔を持った国粋主義者として世に知られている。彼のアジア問題、朝鮮に関する言及は少なくなく、彼の言説の世人に与えた影響、また甚大なものがあった。 父、重職は三河岡崎藩士で、藩校の儒学教師であったが、重昂の幼時、不慮の死を遂げたので、母の実家で養育された。長じて攻玉社、東大予備門に進み、1880年(明治13年)9月、転じて札幌農学校に入り、ここを卒業する。志賀が世人に名を知られるのは、1887年(明治20年)3月に「南洋時事」を刊行した時からである。その前年、志賀は軍艦「筑波」に便乗し、東南アジア、南洋諸島、濠洲、サモア、ハワイ等を経て帰国しているが、そこで植民地経営の実情を視察して、大いに憤慨する。そして、このとき、清との連帯の姿勢も示す。その志賀が、1888年(明治21年)4月、三宅雪嶺、杉浦重剛、井上円了らと政教社を作り、雑誌「日本人」を創刊するが、その主張するところは「国粋保存旨義」である。 政教社の国粋主義は政府の欧化政策への反対や批判にも力を注いだので、世論の支持を大きく受けることになる。志賀はこの雑誌に多くの論文を発表するが、ヨーロッパ列強の東漸の危機についても「日本旨義」のみ説いて、アジア諸国、特に清との連帯の思想がないのが特徴である。 しかも、翌明治22年6月に出した「南洋時事附録」には、大久保利通政権が明治7年に「台湾征討」を行った事実に触れて、「大久保甲東、今何の処にか在る。嗚呼、我日本が当年台湾を占領せざりしは、是れ終天の恨事なり」と書くのである。連帯どころか侵略への転換である。1894年(明治27年)10月、日清戦争が始って間もない時期、志賀は「日本風景論」を刊行した。この書は反響凄まじく、当時のベストセラーとなった。志賀は「日本風景論」で、火山岩の多き日本の山々やその風景に託して、日本の美そのものを、その地理的学殖の豊かさと、古人の詩、歌などを多く引用して、いわば国粋主義的に謳いあげたのである。この書は当時の日本人の風景観、登山観を一変させただけでなく、その精神世界にも大きな影響をもたらしたものであった。ここでは、明治期知識人の良く言って大らかさ、悪く言って無神経さが、時に散見される。つまり、日本の美を称揚するあまり、朝鮮や中国の風景を貶すのである。 「国粋保存論の提起者志賀氏は純粋の日本人なり、……、目下吾人の讐敵なる支那本土に対する彼の敵愾心の如何に激烈なるよ」とは当年のナショナリスト内村鑑三の書評の一節である。志賀はこの頃から、実際の政治活動に乗り出すようになり、対外硬派の議員らと交り、政党にも参加し、また松方大隈内閣1896年(9月)には農商務省山林局長になったり、伊藤博文の立憲政友会に参加し、1902年(明治35年)には衆議院議員に当選する。 志賀の朝鮮に対する言及は少くないが、それが集中的に出るのは「大役小志」という1909年(明治42年)10月刊行の本である。この本は1370頁の大冊で現在でも「日露戦争の観戦記の白眉」とされ、今もなお「名著」とされているものだが、この本には、日露戦争中の朝鮮と、戦後、保護国にされた朝鮮が、志賀の実見記として、300ページ近くも書かれている貴重なものである。例えばこの時期を描いた文学作品などは、日本の国力を無批判的に肯定したものが少くないが、日本が日清、日露戦に勝って、「坂の上の雲」を目がけて駆け登った時、その足もとには蹂躙された朝鮮とその民族があったこと、しかも、その民族の痛みに触れた作品はほとんどない。文学作品ではないが、「大役小志」での朝鮮言及はその逆な意味の典型といえる。 志賀は1904年(明治37年)6月12日より40日間、海軍御用船満州丸で、朝鮮を中心に遊行しているが、その第一章が「満州丸」である。「韓人なるもの無心か、無気力か、將た無我か」(7月8日条)。「童蒙先習」中に「華人、これを称して小中華という」あるところを読んで「韓人は幼時より此の如き事大主義を以て鼓吹せらる、頭脳中に独立心なきもの宣べなり」(7月9日条)。また「女性的国民」と題して「朝鮮男子の女性的なるは、其の稟性柔懦の致す所、朝鮮人たる者須らく自警自奮し、其の女性的なる所を一掃除せざるべけんや」と書く。さらに「韓国事業の困難」では、「韓国の人民は幼穉なり」とやり、「韓人の性質」では、「要は彼等は懶惰(なまけもの)にして、しかも金には貪欲」とやり、韓人を使用するについては「韓人は盗賊根性多ければ、始終其の動作に注意せざるべからず。……、労働を厭ひ、…、総じて横着、不得要領」なるを知らねばならぬという。 この本の終章は「戦後の韓国」と「現在の韓国」である。前者は1907年(明治40年)6月〜7月にかけての、後者は翌明治41年4月から2カ月間の韓国内講演旅行中の見聞記であり、彼の当時の対朝鮮観即ち朝鮮植民地化政策に一点の疑念も持たない日本大知識人の裸の姿を見る思いがするが、これを紹介するゆとりはない。ただ2点のみ指摘しておきたい。@彼は、朝鮮各地の急激な日本人進出を日本国力の伸長として素直に喜んでいるA義兵闘争を「暴徒」と呼び朝鮮人民の侵略に反対する独立闘争の意義に全く盲目であることである。これは今に変らぬ日本人の、身勝手さの模範でもあろうか。(琴秉洞、朝・日近代史研究) [朝鮮新報 2004.6.2] |