〈朝鮮歴史民俗の旅〉 時調(1) |
日本に俳句があり朝鮮に時調がある。どちらも短い形の歌だ。言葉を最小限に凝縮し研ぎ澄まして作られた俳句と時調には、張りつめた緊張感がある。日本には俳句のほかに短歌があるが、時調に比較されるものはやはり俳句であろう。 時調と俳句はその発生から類似点が多い。俳句の母体は俳諧の連歌であった。優雅で和歌的な雰囲気に飽き足らず登場した、武家集団の自己主張の方法であった。朝鮮の時調も、新羅の時代に全盛を誇った郷歌がすたれ、新羅に取って代わった新興国・高麗が「海東盛国」を謳歌していた頃に、社会の支配的地位にあった両班士大夫たちによって始められた。当時、日本は室町時代。朝鮮は高麗時代だったのでやや前後するが、時期的にはほぼ同じである。 日本の俳句は山崎宗鑑らによって始められた。元禄期に松尾芭蕉などの俳人が出るに及び、自然と人生を写す芸術にまで高められることになった。芭蕉以後、俳句は与謝蕪村や小林一茶など、傑出した俳人の筆を通して精錬され、明治以降は正岡子規による革新運動の中でその芸術性がさらに高められ、現代に至っている。 朝鮮の時調についても同じようなことが言える。時調は新羅の郷歌が一部短縮されてできあがった形式であるが、一度発生してからは、高麗を経て、朝鮮王朝と現代に至るまでの長い間、綿々と詠み続けられている。 俳句と時調には共通点が見られるが、詠われる詩の世界はまったくの別物。日本人と朝鮮人の美意識の違いがそこにある。 俳句は五七五の定型詩であり、17文字の制約がある。そのうえに、「雪」「月」「花」などの季語、「や」「かな」「けり」などの切字という詠嘆を表す助詞を用いなければならない。 俳句が、極端に字数を少なくして無駄を省いた究極の定型詩であるのに比べ、朝鮮の時調は字句に余裕を持たせた含みのある定型詩である。時調の定型は三章六句。音数率は三四、四四調。字数はおよそ45文字である。およそというのは、その前後であれば許されるということだ。俳句のような、季語、切字といった制約もない。 時調の定型を成三問の「一片丹心歌」で見るとつぎのような形になる。 論理的であるという点において、時調は俳句とはまったく異なる。俳句はディテールが作品のすべてである。一瞬の間をとらえてその趣向を無限に広める俳句の世界は、論理や説明はまったく無用。研ぎ澄まされた感性だけが求められる。俳句に起承転結がないのはそのためだ。 それに比べて時調は徹底した理詰めの世界である。例えば、上に例示した「一片丹心歌」は朝鮮王朝の忠臣・成三問の辞世の句である。彼は「臣不事二君」の思想から、国王に対する自らの忠義を詠んだのである。 それは日本の俳人が、座禅の床に座って観念の世界を巡らすような抽象的な世界ではない。どろどろとした現実に軸足をおいて、自らの主義主張とその正当性を堂々と語り、相手をとことん説き伏せるのである。 ここに、朝鮮王朝時代を代表するもう一句の時調がある。 不忠であると濡れ衣を着せられ、野に下った士大夫のものと思われる。反対勢力によって地位を奪われて野に下った作者は、理不尽な政略が忌々しくてならない。そこで腹いせに一句ひねってできたのがこの一首である。 もし、同じような境遇にあった江戸時代の武士がその心情を俳句にしたためたとしたら、どのような句になったのだろうか。 もしかすると、「寂しさや枯葉の舞い飛ぶ秋の暮れ」とでも詠んだかもしれない。(朴禮緒、朝鮮大学校文学歴史学部非常勤講師) [朝鮮新報 2004.6.5] |