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〈高句麗壁画古墳世界遺産登録〉 北東アジアの平和な時代開く

朝鮮民主主義人民共和国 平安南道 徳興里古墳 南側整備状況

 古代の北東アジアにおいて、中国大陸の東北部に当たる遼寧省桓仁と、吉林省集安地方から、朝鮮半島の西北部にかけての地域で、特色ある文化が花開いた。三国時代の高句麗文化である。この文化をもっとも特徴づけるものは、当時の王、王族、貴族といった、高句麗国家の支配階層が埋葬された古墳に壁画が描かれていることである。壁画古墳は、4世紀中頃から7世紀にわたって築かれたが、その間に、内部の埋葬施設である石室の構造や、壁画の題材などが変遷する。ところで、朝鮮民主主義人民共和国では、壁画古墳は高句麗後期の首都があった平壌とその周辺に約69基が分布する。そのような壁画古墳のうち、4個所16基が、朝鮮で初めてユネスコの世界文化遺産への登録申請が行われているのである。

 さて、高句麗壁画古墳の最古の例が、黄海南道の安岳古墳群の中に含まれる。すなわち安岳3号墳がそれで、方形封土墳の地下に、横穴式石室が造られ、その壁面のほぼ全体に壁画が描かれている。壁面には、墓主夫妻の肖像画をはじめ、車馬行列図、各種の生活風俗図、装飾文様図など、豊富な内容の壁画が描かれる。壁面に残る墨書銘から、東晋の年号である永和13年(357年)に当たる年に死去した冬壽の墓であることが推測される。冬壽は、中国の遼東地方から高句麗に亡命した人物であるが、一方で、墓主を高句麗国の故国原王とする説もある。それはともかく、安岳3号墳の石室構造や壁画内容、そして、墨書銘などから高句麗と遼東地方との密接な関係がうかがえる。

黄海南道 安岳3号墳 墨書銘(永島暉臣慎氏撮影)

 平壌市力浦区域にある東明王陵を中心とする真坡里古墳群は、5世紀に築かれた高句麗王一族の墓域といえる。この古墳群は、合計21基から構成されるが、そのうちの旧真坡里10号墳が東明王陵に当たる。この古墳は、羨道、前室、後室からなる複室の横穴式石室構造をなす。壁画は、後室の側壁のほぼ全面に蓮華文を配する珍しいものである。

 南浦市江西区域の徳興里古墳壁画は、生活風俗図が中心であるが、墨書銘によると、永楽18年(408年)に築造された、鎭という人物の墳墓である。このように、年代と被葬者が特定できる、きわめて貴重な古墳である。しかも、鎭が仏教信者であることや、道教の存在をうかがわせるなど、北東アジアにおける、仏教や道教の展開を考えるうえでも重要なものである。

 高句麗の壁画古墳は、6世紀に入ると独自に大きな変化を見せる。つまり、壁画の題材から、墓主の肖像画や生活風俗図が消滅し、替わって四神図が登場する。その代表的な古墳の一つが、平壌市三石区域にある湖南里四神塚である。内部の横穴式石室は、やや開いた羨道と長方形の玄室からなる単室構造である。この点は、東明王陵の複室構造に比べて年代的に下降することを示す。壁画に四神図が見られることも、東明王陵の蓮華文図より後出の要素と言える。

 高句麗壁画古墳の中でも、四神図の最高傑作は、南浦市江西区域にある江西三墓であろう。いずれも、羨道と玄室からなる単室の横穴式石室を内部構造とする。玄室の四面の側壁に描かれた四神図は、実に見事なものである。ここで見られる四神図のうちの朱雀図は、双楹塚古墳に見られる蟾蜍図とともに、九州の装飾古墳の題材の一部として受容されていることはよく知られる。さらに、高句麗の四神図は、時代が降って、キトラ古墳の四神図のルーツをほうふつとさせる点でも興味深い。

 以上に見てきたように、高句麗の壁画古墳は、ひとり古代の朝鮮半島を代表する、優れた文化遺産であるばかりでなく、その影響を受けた中国大陸や、その影響を与えた日本列島も含めて、北東アジア全体の文化交流の問題を考えるうえでも、学術的価値が高いものである。しかも、壁画古墳の保存状態はきわめて良好であるとともに、古墳を取り巻く自然環境がよく保全され、そして古墳群自体も、よく整備、公開されていて、まさに世界文化遺産として登録されるに適応しい諸条件を備えている。

 このたびの登録申請が承認された暁には、あらためて高句麗文化への関心を高め、古代朝鮮民族の先進性と優秀性を認識すべきであろう。そして、高句麗文化への理解と、北東アジアにおける共通認識を形成しなくてはなるまい。そのことは、北東アジアにおける平和な時代の到来を導く文化活動にもなるわけである。

[朝鮮新報 2004.6.9]