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会津で花開いた高麗人参

黒いシートの日覆の下でスクスク育った会津人参
 高麗人参の種が江戸時代の8代将軍徳川吉宗の頃に朝鮮から輸入されたのは有名な話。幕府がその栽培を許したのは会津(福島)、信州(長野)、雲州(島根)の3藩だけだった。これらは今でも人参栽培の3大産地として名高いが、その中にあって最大の生産量(約52トン)を誇る福島県会津若松市の「あいづにんじん」の里を5月末に訪ねた。

 高麗人参は江戸時代にはオタネニンジンと呼ばれた。幕府が朝鮮から輸入した種子を藩に下賜したことから「オタネ」と呼ばれ、学名はパナックスギンゼング。ギリシャ語のパン=すべて=アコス=医療が結びついてパナックス、ギンゼングはオタネニンジンの中国名である。

 会津藩は幕府からこの種子をもらい受け領内で栽培が始まり特産地化していった。当時は金塊の2倍もの値打ちのある霊薬として、18〜19世紀には野生のニンジン採りのラッシュとなったほどだとJA会津人参の金田博信参事が語る。「農協に人参だけの単独組合があるのは会津だけです。今は40人ほどの人参農家が加盟していて生産量は42トンです。ほとんどは香港、台湾などに輸出しています。売上は年間1億数千万円程でしょうか」

 金田理事の話によれば、開墾畑の場合、人参はなだらかな傾斜地など排水が良く、肥沃な土壌を好み、水田転換畑では、1年休耕して他の作物を栽培しながら、排水の良い畑地化をするという。

 また、土ごしらえも入念にし前年の秋、モミガラ、稲ワラ、カヤ、青刈り堆肥などをすき込み、翌春、幾度か耕転を重ねたのち、畦を立てる作業が続く。日除けには20年前まではワラを使っていたが、現在は黒シートに代わった。このことで農家の省力化は決定的に進んだという。

「朝鮮人参」と明記された特産物

 今、JA会津人参では「ルーツはトラの棲む密林の妖精たち」と銘打って、人参粉末、人参液、飴、生干、生人参、紅肉、紅毛など多くの製品を作り、主に外国に輸出している。

 金田参事は約300年も会津の風土に根づいてきた朝鮮人参が、土地の人にはあまりにも高価なイメージがつきまとって、地元の消費者に広がっていないのが悩みだと打ち明けた。

 「薬用として国際的に『百薬の長』として知られる人参を、市民の健康維持の常備薬として、また、食文化にもっと取り入れられないか、朝鮮半島での現状に学びながら、町ぐるみで取り組んでいきたい」と語った。

 会津高田町の人参畑を車で行くと、幾重にも重なった人参の緑の葉が風になびいていた。車を降りて人参畑に近づくと黒い日覆シートの中に、殺菌中の農家の人がいた。名前を聞くと菊池要一さん。JA会津人参組合理事の1人だった。

 「人参はデリケートな植物なので栽培は本当に難しい。5月から9月にかけて殺菌をして、害虫を駆除して、雑草を抜いたりし手間がかかる。そのうえ、たぬきが鴨を捕まえて人参畑で食べたりしたら、土に血液や塩分が染み込んで翌年の人参栽培はもうできない。この仕事は一種の投機と同じなので、若い人たちには勧められません」と語った。この10年の間に人参農家が半分ほどに減ったのは、栽培技術の難しさ、気の遠くなるような地道な作業が続くことなど若者に敬遠されたからだという。菊池さんは「ただし、人参は当たれば、儲けはいいけどネ…」とつけ加えた。

 夜は、会津若松市内で人参を食材に郷土料理を出している「薬膳古川」にうかがった。ここでは15年前から地元の「あいづにんじん」を使ったオリジナル料理で好評を博してきた。

 とくに人気は女将の古川文子さん(65)特製の「薬膳なべ」と呼ばれる参鶏湯。若鶏1羽のお腹にもち米、高麗人参、にんにくをぎっしり詰めて煮込み、表面にも人参をたっぷり入れて、きくらげ、クコ、玉ネギを彩りも美しくよそって、食文化の豊かさを演出する。この鍋を自家製のコチュジャンを薬味にして食べると絶品。他県からも客足が絶えない。

 「子供の頃、高麗人参御殿が会津にあり、すばらしいものだというイメージがありましたが、まさか、自分で料理をするとは思いませんでした。15年前から天ぷらや薬膳なべを出してきたが、食べた人からは、血行がよくなって、食べて一週間ほどで貧血も治った、疲れがとれた、冷え症が治ったという声が届きます。おいしいうえに健康にもよいこんなに優れた食材はありません」

 古川さんは「市や農協が力を合わせて、高麗人参の良さをもっと市民にアピールして、人参の消費文化を花開かせたい」と意欲満々に語った。(朴日粉記者)

[朝鮮新報 2004.6.11]