top_rogo.gif (16396 bytes)

〈朝鮮史を駆け抜けた女性たち@〉 詩人、許蘭雪軒

 「信じがたい。婦人のものとは思えない。なぜ許家にはこんなに天才が多いのだろうか。必ず保管して、後世に伝えなければならない」

 これは、16世紀の大学者、「徴録」の作者でもある柳成龍(1542〜1607)の、「蘭雪軒集」に対する評価と跋文の一部である。1589年、この詩集の著者、許蘭雪軒は、夫の裏切り、姑の無理解と虐待、愛児の死、実家の没落、師とも仰いだ兄の死と、おおよそこの世の不幸を一身に背負い、27歳という若さで夭折した。

 美しく、才能に恵まれた姉、許蘭雪軒の遺稿を整理、出版に尽力したのは、その弟であり、小説「洪吉童傳」の作者許筠(1569〜1618)であった。筠の紹介で、中国の詩人呉明濟が編集した「朝鮮詩選」(1600年)に許蘭雪軒の詩が集録されたのを皮切りに、潘之亘の「亘史」、鍾趙(★扌偏に星)の「名媛詩歸」、趙世傑の「古今女史」、王同軌の「耳譚」など、彼女の詩は多くの文集に紹介される。また1711年には、日本で「蘭雪軒集」を文台屋次郎兵衛が刊行している。中国において許蘭雪軒の詩が広く読まれるに至り、当時の、またその後の朝鮮の男性文人達は、大きな衝撃を受け、嫉妬の感情にさいなまれることになる。女性の創作権に対する論議が巻き起こったのだ。実学者朴趾源(1737〜1805)は、許蘭雪軒が夭折して約200年後、その進歩的な思想にもかかわらず著書「熱河日記」にこう記している。

 「一般的に言って、家庭婦人が詩をしたためるなど良いことではない。(中略)蘭雪軒という号だけでも女には身に余ることなのに」

 また、東洋で初めて地球の自転説を唱えた進歩的科学者である洪大容(1731〜1783)は、許蘭雪軒についての激しい嫌悪を語っている。李コ懋(1741〜1793)が自らの文集「天涯知己書」に、洪大容と中国の文人達との会話として記録している。

 「女性が針仕事に精を出し、その余暇に『經書』や『女誡』を読み、規範に忠実に身を慎むことが正しいことなのです。文章を書く術を知り、詩で名声を得たとしても、それは女として正しい道ではありません。(中略)かの婦人は詩は立派だったようですが、徳のない女人だったようです。夫のことを悪く言っていますからね」と洪が言うと、相手の文人はこう答えたという。「美しく才能にあふれた婦人が、無能な夫と夫婦になったのですから、その悲しみはいかばかりだったでしょうか」

 「嫁いだ女は夫が鶏なら鶏に従い、夫が狗なら狗に従う(嫁隨雞、嫁狗隨狗)」のが、女性の道徳であった時代である。  

 没後200年余りを経てもこの有様なのだから、「蘭雪軒集」が刊行された当時は言うまでもない。すなわち、彼らの関心は「詩」ではなく「女性である」、この一点に集中していたといえる。現代にもありがちな話である。

 許蘭雪軒の詩は、前代未聞の作風だった。封建時代の詩によくある、「忠、孝、貞節」を詠った作品がほとんどないのである。苦しい現実からの解放を模索し、自由を希求した「游仙詩」が彼女の詩の多くを占める。そこには美しい女神達が登場し、男神と同等に自由に愛を語り、祝祭や遊びを繰り広げる、透明で美しいファンタジーの世界である。また、現実の世界も詠う。愛児を失った悲しみに満ちた詩や、女性の再婚を許すべきだとする詩、貧しい市井の女達を詠った社会的意識に満ちた詩、女性も自由にその人生を謳歌できる理想世界を追求した詩。驚くことに213篇の詩が今に残る。(趙允、朝鮮古典文学研究者)

 花冠と花の蕾をちりば めた
 虹色の九幅の衣のすそ をひるがえし
 笛の音が碧雲の間に響 くのを聞いたわ
 龍の影 馬のいななき 滄海に昇る月
 上陽君に会いに十洲ま で行こう

(游仙詩、22)

[朝鮮新報 2004.6.14]