〈朝鮮歴史民俗の旅〉 暗行御使(1) |
朝鮮王朝は儒教の立国精神にもとづき王道政治を掲げた。王道政治とは力による覇道政治とは異なる「道学政治」のことで、「仁徳政治」とも言う。 朝鮮王朝は、「国家の治乱は、すべて君主の一心にかかわるもの」として、国王を専制君主の地位に置いた。そして、国王の輔弼として中央に領議政、左議政、右議政からなる議政府を設け、その管轄下に六曹(吏曹、戸曹、礼曹、兵曹、刑曹、工曹)を置いて政治を行った。六曹の長官を判書と言った。この政治機構を「三公六卿」と呼んだ。今日でいう行政府のことだ。 また、政府と別個に台諫制度として、国王に対する諫争と論ばくを担当する司諫院と、時勢を論じ百官の紀綱を糾察する司憲府を置いた。司諫院の長官を大司諫、司憲府の長官を大司憲といい、この部署に務める官吏を別名「言官」と呼んだ。暗行御使は司憲府に属した臨時官職である。 朝鮮王朝が暗行御使を国王直属の機関として置いたのは、王道政治を徹底させるためであった。官吏が善政を行えば民は常に従順であるが、不義を働き悪政を強いれば、民心は離脱し国の安泰が損なわれる。暗行御使は民情を把握し牧民官である地方官吏を糾察するための装置として設置されたのである。 「御使」という職名はもともと中国で生まれた言葉。中国の皇帝は、側近を代理人に指名して地方巡幸を行っていたが、彼らに国王の名代であるという意味で「御使」という言葉を使わした。しかし、同じ「御使」でも朝鮮の暗行御使は、中国のそれとは目的も性格もまったく異なるものであった。中国の「御使」は地方巡幸を通して皇帝の権威と威厳を示すのが主な目的で、一種のセレモニーの様相を呈していた。それに比べて朝鮮の「御使」は、地方官の不正摘発と民情の探索を目的としていた。そして、その方法も名前が示すように暗闇の中で行い、秘密主義に徹底した。 似たような官職は日本の江戸時代にもあった。八代将軍徳川吉宗が、伊賀者を改編して作った御庭番と呼ばれた隠密組織である。だが、隠密は情報収集のための諜報員であって将軍の代理人ではなかった。身分も低く小人目付け、徒歩目付けなどと呼ばれた。 これに比べ、朝鮮の御使は国王の代理人である。派遣された地では絶大な権限をもたされた。情報の収集はもちろん、不義、不正とあれば有無を言わさず即決裁定を下した。量刑も彼らの手に委ねられ、重罪とあれば打ち首も辞さなかった。 朝鮮王朝の官邸は地方政治に神経を尖らせていた。地方といえば江戸時代の藩に当たるが、朝鮮の王朝は一切の分権を認めなかったため、地方の政治であっても中央直轄で行われた。観察使の監督下、府には府尹を、牧には牧使を、郡には郡守を、県には県令を派遣して当たらせたが、官僚の不正が横行したため中央政府を悩ませていた。 もともと百官の糾察と綱紀の粛清は司憲府の職務だが、都がソウルにあり、政府部内にも監視の目を光らさなくてはならなかったため、地方に対してはおろそかになりがちであった。その不備を補うために、国王が密かに密使を派遣したのが暗行御使の始まりだ。国王直属の制度として司憲府に置かれたのが中宗王の時代で、それ以来300年間続けられてきた。 暗行御使の任命は慎重に行われた。派遣が必要と認められれば国王自らが三議政に命じて選任に当たらせた。三議政の合意によって選ばれた者に対してだけ国王の委任状が支給された。三議政は選任に腐心した。任務を終えるまで一切公開されることのない国家的秘密であったからだ。 当時の記録を見ると、暗行御使の適任者は堂下官の中から多数選ばれている。堂下官とは、その品階が正三品以下正九品以上の新進の官僚である。科挙試験にやっと合格して役職に付いたばかりの、年齢的には20〜30代初めである。 なぜ、地位が低く経験の浅い彼らが暗行御使に抜擢され、国家の重責を任されたのか。 その理由の一つは、暗行御使には官僚社会の汚れに染まっていない清廉な者が求められたからである。不正腐敗とのたたかいでは、義侠心と正義感が拠り所になる。加えて臨機応変に対応できる資質があればベスト。 いま一つの理由は、若い彼らが辛く厳しいその任に耐えうる体力を持っているということだ。 暗行御使は若い官僚たちにとっては出世への登竜門でもあった。彼らに対する国王と三議政の厚い信任は、出世街道をひた走る特急便を得たものと同然であった。王命をまっとうして帰れば特進が約束されていた。普通は十年以上も要する清要職に、彼らの場合、わずか数年で抜擢され政治の中枢に身を置いた。若きエリートたちは誰もがチャンスを待ち望んだ。しかし、事は極秘に進められ、以後も公開されることがなかったため、当事者以外は知る由もなかったのである。 王命を授かるといよいよ暗行御使の出道である。その際に御使は国王から封書を、議政府から事目と馬弊と斧鉞を受ける。封書は一種の信任状のようなもので、その表面に「到南大門外開斥」もしくは「到東大門外開斥」の文字が書かれていた。この封書を宮城内で開封してはならない、一旦城門を出て開封せよ、と念を押したのだ。(朴禮緒、朝鮮大学校文学歴史学部非常勤講師) [朝鮮新報 2004.6.19] |