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〈朝鮮歴史民俗の旅〉 暗行御使(2)

 議政府から受け取る1冊の本に、暗行御使の職務と権限が記されている。馬牌は暗行御使であることの証票。10センチほどの銅製の円形の符印である。表に馬の絵柄が刻まれ、裏には発行元が政府の尚書院であることと発行年月日が刻まれている。現場の取り押さえや容疑者の逮捕時に令状として使われただけでなく、駅馬の使用や地方の羅卒(警官)の出動令にも使用された。斧鉞は観察使(正二品)など高位官僚に与えられる金製の斧で権威の象徴である。それが示されると、高位・大爵も従順に従わなければならない。

 国王から封書を受けた御使はすぐにソウルを出発する。家族や同僚との面会は許されない。任務を終えるまで一切秘密。王宮を出ると、まずは南大門から東大門に向かい、そこで封書を開いて初めて任地と任務を知る。湖南(全羅道)・嶺南(慶尚道)地方であれば漢江を渡って南に下り、関東(江原道)・関西(平安道)地方であれば北上した。

 もちろん、官服を脱ぎ捨てて変装した。時には短いつばの冠をかぶって中人になりすました。チゲを背負って常民になることもあった。頬被りして賎人になる時は覚悟しなければならない。両班ばかりでなく常民の前でもひれ伏し、雑言罵声を浴び、理由もなくムチを打たれることさえあるからだ。

 暗行御使が遭遇した数々のアクシデントが記録に残されている。多くは身分詐称罪で罰せられている。常民の分際で公務に立ち入ったと刑に服された者もいる。身分がばれ地方官吏に毒殺されたケースもあった。

 暗行御使の任地は普通6、7カ所の郡県であった。小さくは1つか2つの邑(村)。大掛かりなものとしては、純祖の時代に行われた京畿地方の御使活動があった。観察地域は実に37カ所の郡県に及んでいる。

 主な任務は民情の把握と民衆の救済にあった。朝鮮時代の民衆は常民と賎人からなっていた。彼らは国の基幹産業である農業や商工業の担い手でありながら、過酷な搾取と生活苦にあえいでいた。暗行御使の目は常に彼らの生活に注がれ、その状況は逐一国王に報告された。自然災害や緊急の事態においては、状況の把握にとどまらず、御使はその権限をフルに活用し救済に乗り出していった。「朝鮮王朝実録」に、暗行御使朴文秀が国王に送った報告が記録されている。

 「今年は凶作の年で10戸に9戸の家で糧食が尽きました。私は、湖西に蔵穀があるのを知って百石の米を捻出し、それを公州の被災民に分け与えました。この処置は当地の士大夫たちの励みとなりました」

 朴文秀はたびたび暗行御使に抜擢され各地で農民救済活動を行っている。平安道の飢饉に際しては1万5000石の食料を調達し、全道民が飢えに苦しんでいた咸鏡道でも起死回生の救済活動を行った。その功績が認められ、後に六曹の判書にまで出世している。

 18世紀に書かれた小説「春香伝」は暗行御使の在りようを見事に描いている。ここでそのあらましを紹介する。

 …両班の息子李夢龍は府使に赴任した父にともなって南原に滞留していた。そこで妓生の娘春香を知り夫婦の契りを結んだ。ほどなくして夢龍は父のソウル帰任に伴い南原を離れることになった。2人は再会と結婚を約束して別れた。

 夢龍は勉学に励んで科挙に及第し宮廷の官吏になった。他方、春香は新来の府使卞学道によって厳しい運命を強いられていた。妓生の子は妓生であるから結婚は認められない、妓生としてわが身に仕えよ、というのである。その要求を拒むと獄門に閉じ込めて拷問し、ついには「長官命不服罪」で死罪を宣告した。

 国王は卞学道の悪徳政治の報告を受けると暗行御使の派遣を決めた。李夢龍を抜擢してその任に当てた。夢龍は乞食に変装して南原に赴き、悪事をつぶさに調べ上げた。卞学道が自分の誕生日に春香を処刑するとの情報も得た。夢龍はその日を決着の日と決めて周到に準備した。

 当日、夢龍は落ちぶれた両班乞食に扮して祝宴の場に訪れ、祝賀のしるしとして漢詩の一首を残した。

 金樽の美酒は千人の血
 玉盤の佳肴は万民の膏 
 燭涙落ちる時民は涙を落とし
 歌声高い処に怨声も高し

 民衆の復讐を行間に織り込んだ詩である。詩に暗行御使の登場を予見した参席の高位両班たちは、青ざめ慌てふためいて席を立った。しかし、官邸の門はどこも閉ざされて逃げ場を失っていた。その時、「暗行御使出道」の大声が邸内のあちこちでとどろき、平伏して静まり返った中庭に、正装した暗行御使李夢龍が、馬牌をかざして静々と現れた。これにて一件落着。春香は無罪放免となり、卞学道は悪事をあばかれ粛清された。山のように積まれた不正な証文に火がつけられ、いわれなき罪のために囚われていた常民も賎人も解放された。…

 19世紀の朝鮮は封建末期。国内的には勢道政治で朝廷は混乱し社会の秩序も乱れ、外部からは日本や西欧列強の侵略脅威が増していた。この時代に、辛酉邪獄、洪景来の乱など、国家を揺るがす大きな社会的事件が続発している。王朝は事あるごとに暗行御使を派遣するが、事態はそれによって解決するほど単純なものではなかった。暗行御使の変質も始まっていた。

 暗行御使は終末を迎える朝鮮王朝とともに消えていった。(朴禮緒、朝鮮大学校文学歴史学部非常勤講師)

[朝鮮新報 2004.6.26]