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〈高句麗壁画古墳世界遺産登録〉 平山郁夫、美知子夫妻訪朝9回、支援に尽力

 6月28日から7月7日まで中国の蘇州で開かれるユネスコ世界遺産委員会で朝鮮の「高句麗壁画古墳群」が世界遺産に登録される。その陰には、97年の初訪朝以来、9回も平壌を訪ねた日本画家でユネスコ親善大使の平山郁夫・東京芸術大学長(73)、美知子夫妻の尽力があった。平山画伯はこれまで、高句麗古墳壁画の世界遺産登録に協力するため、世界遺産登録に必要なデータ測定のための温湿測定器、ビデオカメラ、パソコン、車両などを朝鮮側に提供。さらに記念講演やシンポジウムを開き、世界遺産登録への世論を盛り上げ、3年前には、世界遺産登録支援の「高句麗今昔を描く平山郁夫展」(NHK・朝日新聞社共催)を日本各地で開催、収益金を壁画の保存修復基金に充てるなど、熱心に取り組んできた。

不思議な緑

 鎌倉市二階堂の閑静な自宅で、平山さん夫妻は高句麗古墳壁画の世界遺産登録への思いを語った。

水山星壁画古墳でスケッチする平山さん

 「朝鮮の故地・高句麗は古代日本のお手本だった。不幸にして、まだ、日朝間には国交がないが、今後、高句麗壁画への関心も高まり、朝鮮への旅行者も増えると思う」

 平山さんによると、高句麗壁画とは「不思議な縁」で結ばれているという。平山さんはその思いについて「私も同じ血、同じDNAを持っているのでしょう」と熱く語った。

 「私が37年前に描いた『卑弥呼擴壁幻想』(院展作・1967年)は、高句麗壁画の最高傑作に数えられる水山里古墳壁画の女性像を参考にして描いたもの。そして、その絵の発表から5年後の72年、戦後最大の考古学的発見と言われた高松塚壁画古墳が見つかった。そこに描かれた『飛鳥美人』は私が想像した通りの服装をまとった女性像。

 私の推測は当たっていた」。平山さんは、やがて師の前田青邨画伯の下で模写班の責任者に就任した。「完成まで7カ月かかりました。小さな穴なので、出入りするのも大変で…」と当時を振り返った。

 高松塚はもちろん、近くで発見されたキトラ古墳の四神図も、「高句麗壁画をお手本に描かれたのは疑いもない事実。技量は小学生と大学生ほど違いがありますが…」と画伯が語り始めると、美知子夫人が「あなた、大学生と幼稚園児ほどの違いですよ」とやんわり「訂正」する一幕も。

パリ、北京で根回し

高句麗壁画古墳への思いを語る夫妻

 平山さんは9.17以降の北バッシングの中でも変わることなく訪朝を重ね、パリや北京にも赴き、世界遺産承認のための行脚を続けた。周囲の人からは平壌行きについて「危ない、止めた方がいい」と言われたりもした。しかし、平山さんは全くひるまなかった。それは、なぜなのか。

 「拉致被害者のご家族は本当にお気の毒だと思う。しかし、なぜ、こんな事件が起こったのか、その原因を探り、考えなければならない」と平山さんは静かに語りはじめた。

 日本は45年8月15日、ポツダム宣言を受け入れ、連合国に降伏して敗北した。しかし、もっと早くポツダム宣言を受諾すれば、広島、長崎の原爆投下で30万人の犠牲者はありえなかったし、東京、大阪などの大空襲での数十万人の犠牲者も生まれず、そして、南方の島々で数十万の兵士たちが餓死することもなかったはず、だと平山さん。

 「何よりも、朝鮮を植民地にしなければ、日本敗戦後に分断されることはなかった。ポツダム宣言をもっと早く受諾していれば、ソ連参戦もなく、朝鮮は解放後一つの国として復興を遂げたであろう」

 戦後も日本と朝鮮の間は冷戦が続き、強制連行、「従軍慰安婦」問題など何一つ解決がなされず、そういう中で拉致事件が起きたと指摘する。

 「だからこそ、小泉総理が2度も訪朝され、『両国間の敵対関係を友好関係に、対立関係を協力関係に変えるべきだ』と決意されたのは正しいと思う」

 広島出身の平山さんは旧制修道中学3年の8月6日、被爆した。爆心から3キロ。勤労動員先の陸軍兵器補給廠の作業小屋でのことだった。火の海の街、人々が傷つき死んでいく様を見た。原爆の後遺症にも悩まされた。だからこそ平和の貴さを誰よりも知る。三蔵法師がオアシスにたどり着く場面を描いた「仏教伝来」に始まるシルクロードを題材にした画風。原点は原爆の地獄絵だ。

 そうした平山さんの原爆犠牲者への鎮魂と世界平和への願いが、こんにちにおいても高句麗古墳壁画を守るために何度も朝鮮へと足を運ばせた。

文化の力こそ

高句麗古墳壁画安岳三号墳 王

 平山さんは繰り返し語る。「文化は平和によってのみ可能であり、文化こそ平和を生み出す力である」と。

 これまで、そんな平山さんに寄り添い、訪朝を共にしてきた美知子夫人は「南北朝鮮の和解と統一の大きな流れ、日朝正常化への動き…、そして世界遺産登録。平山の生き方は正しかったと思いますよ」ときっぱり語った。これまで共に190回ほど外国を訪れ、世界中の人々と触れ合い、平和交流を重ねてきた。

 「朝鮮に最初行った頃は米朝間の緊張関係があってピリピリしていたが、いまはとても穏やか。特に年寄りには優しくて、親切。『百聞は一見にしかず』で一度足を運べば印象は全然違うものになる」と美知子夫人。

 今春の東京芸大の卒業式。翌日、訪朝を控えていた平山さんは巣立つ卒業生らに自らの訪朝体験に触れながら、「若い世代が朝鮮との平和の架け橋になってほしい」との言葉を贈った。ワシントンでの講演でも同じ思いを口にした。

 平和を希求する多忙な日々―。

 「いま一番健康です。あれほど悩まされた原爆症は何時の頃か、影をひそめてしまいました」とにっこりほほ笑む美知子夫人。

 平山さんは「高句麗文化が花開いた平壌に日本から多くの人が是非、訪ねてほしい。自然や絵画を通して、文化の面で風通しが生まれ、正常化へのステップになることを願っている」と力強く語った。(朴日粉記者)

[朝鮮新報 2004.6.28]