〈朝鮮歴史民俗の旅〉 弓述(1) |
古い時代、中国人は朝鮮を東夷と呼んだ。夷とは弓と大の合成語で、そのいわれはこの民族に大きな弓があったことに由来する。弓を好んで使いその能力に長けていたことを表したのである。 高句麗の歴史は弓の歴史から始まる。始祖王の名は朱蒙であった。高句麗語で弓の名人という意味だ。7歳の時、すでに自ら弓と矢を作った。その腕前は群を抜いていた。 東夷の弓はさまざまであった。粛慎に藁矢、濊・貊に檀弓、高句麗に貊弓があった。高句麗の弓は古墳の壁画に描かれていて、その形状が明らかである。壁画の絵は数人の騎士が馬に乗って狩りをしている光景。騎士たちは鹿や虎を追い詰めて弓を打っている。矢が当たり血を流している獣も見受けられる。手綱を取らず弓を持って縦横無尽に走る騎士。彼らが手にしているその高句麗の貊弓は、朝鮮独特の丈の短い湾弓で、今日でも使われている。 壁画には流鏑馬の光景も見られる。一人の騎士が馬上から弓を引いて的をめがけるのを審判が見つめている。馬を馳せながら馬上より的を射る流鏑馬は日本でも平安末期に現れ、鎌倉時代に武家社会でおおいにはやった。その原型はおそらく4世紀の高句麗にあったものと思われる。弓と馬は騎馬民族国家・高句麗の象徴であったのだ。 弓は百済や新羅でも作られ使用されていた。「三国史記」はつぎのように書いた。 「百済・比流王の頃、宮殿の西側に射亭を設けて、毎月の1日と15日に民百姓を呼び集め、国王観覧のもと弓射ちの行事を行った。長らく恒例行事として行われたので、ついに郷俗化し民間の行事となった」 新羅でも同様の行事を行ったが、中でもエリート集団である花郎は身の鍛錬と親睦を目的に弓の射撃を大いに行っていた。 弓術は高麗、朝鮮王朝を通じ国家次元で奨励された。武人ばかりでなく文人も弓に興じた。両班たちは射亭に妓生たちをはべらせて競技を行い、命中するごとに「チワジャ」の掛け声を言わせて雰囲気を楽しんでいた。 弓術は軍人や士大夫の独占物ではなかった。村ごとに射亭が置かれ、何時、誰もが来て楽しんだ。身分の差もなく男女の区別もなかった。がんじがらめの身分制度のもとでも、弓術に限っては公平・無差別であった。まさに国民的スポーツであったと言わねばなるまい。 武士といえば日本では刀である。これに比べて朝鮮民族は剣に対する思いが少ない。剣の達人と言われる者が歴史の記録になく、名刀と呼ばれる刀も存在しなかった。その代わり、弓に対する思いは強く、達人も多かった。朝鮮では弓の名手を善射と呼んだ。朝鮮の英雄・豪傑は剣士でなく善射であった。 唐の安西都護府にまで出世した高句麗の武人高仙芝は、パミール高原の戦いで大勝利を得て中国人の絶賛を浴びた名将であったが、彼の弓術に対して「新唐書」は、馬上にあって行う弓の技は天下に二つとして見ることがない、とそのすご腕を称えている。 高麗の忠臣・申崇謙も無類の善射であった。以下「高麗史」の記述を紹介する。 「ある日、太祖王建が諸将をともなって平山に狩りに出かけた。三灘にさしかかった頃、上空に三羽の雁の飛び行くのを見て、国王は誰かあれを打ち落とす者はいないかと仰せられた。申崇謙がその言葉を聞いて、『我におまかせあれ』と申し出て、さらに一言、『いずれの鳥を撃ちましょうか』と尋ねた。国王は、三番目のものだと申された。すると彼はさらに一言、『右翼と左翼のいずれにいたしましょうか』と。国王が左翼と申されると、その瞬間、弓は放たれ矢は空を飛び、三番目の鳥の左翼に命中して地に落ちた。国王はおおいに感嘆し申崇謙を誉め、その土地の三百結を褒美に与え、その地名の平山をとって本貫とさせた」 朝鮮王朝建国の王・李成桂も善射であった。彼は高麗末期に南征北伐の戦いに身を置いていた。人々は彼を智と勇を兼備した神弓手と呼んだ。神弓手とは神業的な弓の名手で、善射の上。「朝鮮王朝実録」は伝説を史実に折り込んでこと細かく書いている。 「李成桂と李之蘭はともに弓の名手であることを知っていた。ある日、優劣を決しようと二人は競い合った。的は歩いて来る女人の頭上にのった水甕。ほどなくして水を汲み終えてこちらに向かって来る女の姿が見えた。初めに弓を撃ったのは之蘭であった。弓矢は水甕を貫通して女の後ろに落ちた。それを見た成桂がすかさず矢を放った。彼の撃った矢は、先に水甕を貫いたその穴に的中し、ぴたりと止まった。穴がふさがれた甕からは一滴の水も漏れず、女は何が起きたのかも知らず彼らの前を通り過ぎて行った」 つぎは史実に基づいた話。 「高麗・禑王四年(1378)8月。倭寇が黄海道に侵入すると元帥・梁伯益が李成桂に救援を求めた。李成桂は副元帥となって出陣した。海州の東方でのことである。李は高台の亭子に立って、まず17本の大羽箭を敵軍に撃ち込んで、総攻撃の命令を発した。敵軍が退散すると、李は部下の者たちに『17本の矢はすべて敵軍の左眼を狙ったものだ。確認するがよい』と言った。部下たちが倭寇の死体を調べてみると、何たることか大羽箭はすべて左眼に命中しているではないか。まさに神弓手のなせる技であった。敵軍は総攻撃以前に弓に恐れをなして退散したのであった」(朴禮緒、朝鮮大学校文学歴史学部非常勤講師) [朝鮮新報 2004.7.3] |