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〈高句麗壁画古墳世界遺産登録〉 古代日本社会にも大きな影響

 さる6月28日から中国蘇州市で開催されていた、世界遺産委員会で、高句麗壁画古墳の世界遺産登録が決定された。これまで朝鮮の文化財関係者をはじめ、日本でも、東京芸術大学学長の平山郁夫画伯らが中心となって、文化遺産の指定を国際的に早くから呼びかけていたこともあり、古代東アジアの民族芸術や、歴史研究の課題究明に、明るい未来をもたらすものとして、この指定を喜び、大きな拍手を送りたいと思う。

 高句麗は紀元前3世紀頃に騎馬民族の扶余族の一集団(濊貊)が北方から南の中国の遼寧省、桓仁市付近に移住し、高句麗最初の山城を、五女山上に築いて都城としたのが始まりといわれている。紀元3年には、都を現在の吉林省集安市に移し、「国内城」や戦時用の「山城子山城」を整備して、国家体制を強固なものとした。

 この鴨緑江に沿う吉林省集安市には、有名な高句麗の広開土王陵碑と将軍塚・大王陵があり、また舞踊塚、角抵塚、散蓮花塚、三室塚と通溝四神塚など、著名な壁画古墳が分布している。これらの壁画古墳も、国際的にも貴重な文化財として知られており、中国の申請も認められて世界文化遺産に登録された。

 高句麗が集安から平壌に都を移したのは427年であった。現平壌市や南浦市と黄海南道安岳郡一帯の壁画古墳を含めて、5、6世紀の高句麗がもっとも強国として君臨したことがわかる。古代東アジア世界にとって高句麗壁画古墳の存在は、民族の来世観にもとづく宗教心と芸術活動とが、周辺の民族に少なからぬ影響を与えたという点で、重要な存在である。

 高句麗の古墳壁画は、およそ3世紀頃から7世紀までの約400年間にわたって、描き続けられてきた。初期の壁画は、死者の来生観に基づく、生前の生活をリアルに表現した。埋葬された王侯貴族たちの日常生活や、狩猟、大行列の姿を克明に描いた例は、4世紀後半の黄海南道安岳郡五菊里の安岳3号墳である。墓室を生前の居館らしく飾り、活気のある厨房図、騎馬軍団を含む、厳粛な行列図、相撲か空手かと疑念のある壁画など、被葬者の生前を偲ぶ人物風俗画が中心である。5世紀初めの徳興里壁画古墳では、2つの墓室に人物風俗画が描かれ、高句麗の文化的独自性が高揚した時代であったことを示している。5、6世紀以降、人物風俗画とともに、四神図が出現し、やがて6世紀後半から7世紀中葉にかけて、高句麗の古墳壁画は四神図中心に変化していく。

 中国と朝鮮半島をめぐり激動の歴史の嵐は、高句麗の命運をも左右する。6世紀前半代には伽耶は姿を消し、西暦660年には、唐、新羅の連合軍によって百済が滅び、ついに668年にいたり高句麗が滅亡する。この危急存亡の折に、高句麗、百済などから日本へ多くの人々が東海の波涛を越えて渡来した。

 奈良県高松塚古墳とキトラ古墳の壁画は、日本のいわゆる装飾古墳の壁画とは質的に大きく異なっている。絵画の描法も勿論だが、内容は高句麗の古墳壁画の宗教・思想性など、当時の世界観に基づいたものである。とくに、四神図や星宿天文図の存在、キトラ古墳での子と寅の獣頭人身像の確認など、新羅との関係も考えねばならなくなってきた。

 高句麗古墳壁画は、古代東アジア世界の宇宙観や死生観に基づく、高句麗の人と社会の現実をみごとに表現したもので、高松塚古墳やキトラ古墳での壁画発見は、単に絵画描出の輸入ではなく、死後の世界をどのように理解するかという精神世界観が、古代日本の社会に受け入れられていたことを示す点で貴重な宝である。

 高句麗壁画古墳の世界文化遺産の指定は、朝鮮民主主義人民共和国の人々にとっては喜びであり、民族の誇りであるが、東アジア全域の人々にとっても、古代の宇宙、世界観の共通性を知り、改めて現代社会に生きることを共感できるのが何よりも嬉しい。
 今後は、文化遺産として、将来に伝え遺すための一層の努力を続けたいと思っている。(明治大学名誉教授、大塚初重)

[朝鮮新報 2004.7.7]