〈朝鮮歴史民俗の旅〉 弓述(2) |
壬辰倭乱で活躍した李舜臣将軍も善射であった。彼が豊臣秀吉の大軍を南海で大破、撃沈するのには、もちろん亀甲船の威力を抜きにしては考えられないが、敵船を焼き払ったのは船から発せられた火箭(鏃に火の玉をつけて飛ばす弓矢)であった。何千何万という火箭によって、夜空が真昼のようになったというから、その威力は察するにあまりある。それは1本ずつ手打ちするのではなく、一撃で数十発ずつ飛散したというから、ロケット砲のように改造された弓のようである。 壬辰倭乱が戦われていた1594年、国王・宣祖が訓練都監に対して、軍隊の訓練を改めるよう指示したことがあった。弓術中心の訓練を見直し、槍術や剣術、棍棒術を取り入れ、近接戦に備えるべきであるというのだ。国王のこの指示は陸戦での挽回を期するための当然の対策であった。しかし国王のこの指示は武将たちの承服するものとはならなかった。そして戦争遂行の責任を持っていた兵曹は、武将たちの意見をまとめて次のような上奏文を国王に送った。 「わが国の伝統は弓術にあり、兵士たちは槍剣の戦いに熟しておりません。この時期に至って、弓を捨てて槍剣を取れと命じれば、弓術の百戦猛者もなすべき術なく、かえって無能の鈍兵となること、火を見るより明らかであります」 武将たちが上奏文で切々と訴えているように朝鮮の戦術は常に弓術を中心とした戦いであった。三国時代も高麗の時代も、朝鮮王朝になっても、その戦法は変わることがなかった。忠臣であった武将たちが、国王の指示をも翻してまで弓術に固執したのは、その伝統的戦法に勝利を確信していたからであった。 では、なぜ弓術であったのだろうか。 どうやら戦争の地形と関係があるようだ。山地の多い朝鮮では山に城や要塞を築きそれを拠点にして戦うことが多かった。高句麗との城砦攻防戦に大敗した中国の隋や唐が、「城を攻めるに高麗に勝るものなし。城を守るも然り」と、攻城守城戦に長けた高句麗の戦法を称えたのも、この国の戦術が城中心の戦いであったことを示している。 これは敵が常に異民族の侵略者であったことにも理由を求めることができる。頑丈な城で食料の備蓄さえ十分であれば長期戦にも耐えられる。一方で夜襲をかけたり、義兵による遊撃戦で後方を断てば、兵力は分散し食料も尽きて戦力を失うはめに落ちる。 守城であれ攻城であれ、遠距離戦闘に必要な武器は飛び道具である弓。槍や刀は近距離の白兵戦では威力を発揮するが、遠距離では無用の長物に等しい。 兵隊の列を長く連ねる戦術が中心であった朝鮮で、主力戦闘武器は弓であり、刀や槍は補助的なものとして利用された。近接戦の日本で刀剣が発達したように、朝鮮では弓が発達し用途に見合ったさまざまな弓が開発されていた。一般的に言って、弓の形状は大きく長弓と短弓とに、また構造上では丸木弓と複合弓とに分けられる。丸木弓は一本の棒を曲げて弦を張ったものであり、複合弓は木材に動物の角や筋、金属、竹などを合成して弾力をいっそう強化したものである。 朝鮮にはこの二通りがあるが、戦や狩りに使われる弓はもっぱら後者で、高句麗の古墳壁画に描かれた弓もこれだった。 弓は用途によって、正両弓、禮弓、木弓、鉄弓、檀弓、竹弓、(★弓偏に古)弓、鉄胎弓、砲弓、九弓弩など、10数種類があった。それらは儀礼用、練習用、騎馬武者用、一般兵士用、将軍用など、使用する者と用途によって使い分けられた。このうち最も威力ある弓は砲弓と九弓弩であった。砲弓は城砦や車に備えつけ遠距離の敵の大量破壊に有用であったし、九弓弩は一撃で数十本の矢を放ち、射程距離が1000歩に至った優れ物である。 弓の用途と威力に応じて各種の矢も開発された。矢には柳葉箭、六両箭、禮箭、片箭、大羽箭、将軍箭などがあるが、中でも砲弩弓によって発射された将軍箭は鉄製で、その重さは1.8キロから3.5キロもある重量級の物であった。 戦闘の武器としての弓と関連する備品は、政府の武器調達部署である「軍器寺」傘下の弓房で製造された。弓房は、弓匠、箭匠、箭筒匠のもと、数十人の作り手が分担して作業し、必要な資材は地方から優先的に取り寄せることになっていた。 朝鮮王朝が弓術を国民的スポーツとして奨励するのには目的があった。一つは、日ごろから戦争に備えること、いま一つは、国民に儒教的素養を身につけさせることであった。 孔子は、その教えの中で、弓術は人々の情操と品位を保つうえで非常に良い競技である、と教えている。王朝政府の官僚たちは孔子のこの言葉に着目していたものと推察される。実際に王朝政府は、9項目からなる訓戒を文書に著し、弓術の心がけとして競技者に求めていた。 当時の弓競技を描いた風俗画や随筆などが残されている。どこも盛況で人だかりになっている。以下は開城・広徳亭の射亭の風景。 「射亭に責任者である射頭1人と2、3人の掌務を置く。射員の総数は200人。各2人の射手が射台について競う。1順に5射。これを3回繰り返し3順15射をもって勝敗を決する。命中すれば旗が上がり、妓生4人が声たからかに射手の姓名を呼んで知らせる。同時に、太鼓、長鼓、銅鑼、鎮が鳴り響き、人海をなした射亭の競技場は騒然となる」(朴禮緒、朝鮮大学校文学歴史学部非常勤講師) [朝鮮新報 2004.7.10] |