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〈生涯現役〉 9人の子どもと49人の孫全員を朝鮮学校に−林申出さん

 JR鶴橋駅(大阪市生野区)の改札口を抜けて数歩進むと、狭い路地にはきらびやかな朝鮮の民族衣装が飾られている店、食器・漢方薬を売る店、香ばしいチヂミを焼いている店、そして食欲をそそるまっ赤なキムチや渡り蟹の漬物などが所狭しと並べられた鶴橋国際市場に出る。

 林申出さん(74)が営む「山亀商店」はその一角にある。店の裏手にある「漬け場」をのぞくと、林さんは忙しそうに動いていた。

 「何も話すことないよ。小さいときからずっと働き詰め」と笑顔で話す。

 関釜連絡船に乗って玄界灘を渡ったのは12歳のとき。母親と妹を故郷・済州島に残して、先に日本へ渡っていた叔父を頼り祖母と2人で海を越えた。
 
 
 「9歳のときにアボジが死んで、そのときから働きっぱなし。壷を背負って山に水汲みに行ってね、今は漢拏山にも水道はあるよ。あのときは30分以上も歩いて、時には壷を割ってよく怒られた」

 日本の植民地下での生活もはっきりと記憶している。朝8時に家から出て東を向き、日の丸を揚げて、君が代を歌い、お辞儀をしてまた家に戻った。「半分捕虜みたいな生活やな。強制的にそんなことさせられた。日本の警察に真鍮の食器をみんなパッチョ(差し出し)してな。それで兵隊の玉作るんや。真鍮言ったら丈夫やで。磨いたらピッカピッカになる。3代から4代は使えるもんや」。

 日本へ来てからは叔父の工場で働いた。戦況は厳しくなり、天王寺は空襲を受けた。「みんなまっ黒けや。空にはまっ黒な煙がいっぱい広がって、誰かが『風上に行け〜、風上に行け〜』って叫んどった。布団かぶって線路つたって逃げたんや。ホンマ、よく生きてたな」。

 大阪では繁華街という繁華街はすべて空爆の的となり破壊された。林さんは空襲を逃れて一時鳥取県に疎開したが、戦争が終わるとまた鶴橋に戻ってきた。

 「親もない、家もない、兄弟は死んだ、そんな人がいっぱいや。ただぼーっと座ってる人もおった。10歳くらいの子どもは食べな死ぬから物を盗みもする」

 日本が戦争で負けたため、朝鮮人を雇用しないケースも多かった。日本人ですら仕事のない時代、叔父の工場では進駐軍の生地を買い取って運動靴を作ったが事業に失敗。かぞえ17歳で林さんは結婚した。

 その後は鉄屑拾い、八百屋をして生計を立てた。夫と2人3脚で9人の子どもを育てる中で何よりの自慢は、子どもたちをみな、朝鮮学校に通わせたこと。49人の孫たちも全員朝鮮学校で学んでいる。

 「民族意識は大切。済州島に行ったとき言葉を話せるから。言葉を知らんな腹が立つ。言葉を知らんと熱もない」

 林さんは「国がどないなっても関係ないことあらへんで」と言いながら、故・金日成主席の教えはひとつもまちがってない、主席は亡くなったけど、若い人にその教えをしっかり伝えないといけないと強調した。

 「ウリサオプ(総連事業)はもっとファイト! やで。統一したらどないするかしっかり考えなあかん。今がんばってるのは学校の先生だけ違うか? あとはみんな寝とる」と、檄を飛ばす。

 少々ぶっきらぼうな物言いかもしれないが、その中に林さんの率直な気持ちが込められている。

 「共和国では食べ物に困ってる。見てるだけで辛いんや。みんなで助け合わなあかんで」

 鶴橋でキムチ屋をはじめて20年経つ。今では息子夫婦が店先に立っている。

 林さんはキムチが少しでも学校運営の足しになればと、大阪をはじめ兵庫県や和歌山県、愛知県の朝鮮学校のオモニ会にも低額でキムチを分けている。今では噂が噂を呼び、「山亀商店」のキムチの味は、北海道から沖縄まで日本各地に広まった。宅配便での注文も後を絶たない。

 「漬け場」の片隅には、そんなハルモニのキムチを誇らしく思う孫の作文掲載記事(2003年コッソンイ作文コンテスト金賞「うちの『キムチ屋』、東大阪朝鮮中級学校・黄明史」)が飾られている。

 林さんの夢は、「はよ祖国統一して、漢拏山から白頭山に行く」ことだ。(金潤順記者)

[朝鮮新報 2004.7.12]