〈本の紹介〉 東アジア史のなかの日本と朝鮮 |
小学生のころ、教室の黒板の上に大きな年表が掲げてあった。日本を示す赤い帯が太くなったり細くなったりし、それにともなって朝鮮を示す帯が突然消えたり、また現れたかと思ったら2本になっていた。 赤い帯は「大和時代」のところで朝鮮側に食い込み、そこには「任那日本府」と書かれてあった。その年表を見ていると、不思議なことに、帯の幅に沿って自分の体も伸びたり縮んだりするような気分がしたものだ。いま思えば、同じ教室には通名を名乗る朝鮮人の友もいたはずだが、彼はどんな気持ちでその年表を見ていたのだろうか。 任那日本府が日本書紀の記述を唯一の根拠とした実態のない存在であり、日本書紀も大和政権の正統化のために編纂された一種のプロパガンダ文書であることを私が知ったのは、かなり後、自発的に朝鮮の歴史を学んでからのことだった。 朝鮮史にさほど興味のない人たちは、教科書に描かれた日本の朝鮮支配のイメージを、頭の片隅で持ち続けているのかも知れない。 本書を一読して、そんな記憶がよみがえった。そして、自分の体が伸びたり縮んだりする感覚が、私だけの特異なものではなく、まさにその感覚こそが、日本書紀と、それを教育に利用しようとするため政者の意図に沿うものであったことが、あらためて理解できた。 本書は古代から近現代にいたる日本と朝鮮の関係をわかりやすく解説すると同時に、大和朝廷がなぜ「任那日本府」の虚構を必要としたのか、当時の東アジアの国際関係の政治力学を分析するなかで解き明かしていく。そして「日本」「天皇」という概念が「朝鮮の服属」という虚構に基づいたものであり、その虚構を支えるために作り出された物語(日本書紀にあらわれる神功皇后の三韓征伐や日本府の記述)が、秀吉に朝鮮侵略の口実を与え、さらには現代につながる日本人の朝鮮蔑視の根拠となっていく過程を、鮮やかにえぐり出している。 天皇が朝鮮王を臣下に置くという架空の物語は、日清・日露戦争を経て膨れ上がり、ついには朝鮮を併合して現実のものとなってしまう。第二次大戦で敗北した日本は植民地を放棄し、朝鮮経営の根拠となった神話教育も否定されたように見えたが、先の年表のエピソードに見るように、根底の部分では古い歴史観が脈々と受け継がれてきた。その端的な例が、「新しい歴史教科書」であり、朝鮮争奪を狙った日露戦争を「国民の戦争」と言いくるめる右派メディアの動きなのだろう。 だが、「日本は天皇を中心とした神の国」(森喜朗前首相)という言葉に象徴される夜郎自大な自意識の膨張は、百済滅亡で朝鮮への足がかりを失った大和政権が日本書紀の編纂によって内向きの正統性を強めようとしたのと同じく、激動の東アジア情勢に対応できず、アメリカに追従するしかない、自信のなさの裏返しではないのか。 著者は朝鮮から切り離されて孤立を深めた大和政権について、こうコメントする。「現実の変革が不可能ななかで理念の維持をはかる方法はひとつしか残されていません。実際の交渉を断って、現実に目をつむることです」。果たして日本人はこの千年でどれほど進歩したのだろうか。現実を見据えた朝鮮政策は可能なのだろうか。(吉野誠著)(翻訳家、米津篤八) [朝鮮新報 2004.7.21] |