〈朝鮮史を駆け抜けた女性たちA〉 比丘尼、李禮順 |
「既婚の娘をよく監視しないで邪まな輩と交際させ、夫を殺させ、男と山に逃げこむような事態を引き起こさせました。(この女は)倫理を犯しただけではなく、官吏の家の名誉をも汚したのです」(李朝実録、光海君日記、巻第81) 「金自兼が死ぬ前にこう言いました。『私の妻は私より優秀なんだ。私が死んでも、生前と変わりなく訪ねてくれよ』と」(李朝実録、光海君日記、巻第81) 「金自兼の妻、李氏は、多くの人たちから尊敬され、訪問を受けたそうです」(李朝実録、光海君日記、巻第81) この3つの証言は、同じ女性のことを語っている。李禮順という、その生涯を仏教に捧げた女性である。父の名は李貴(リ・グゥィ1557〜1633)、夫の名は金自兼(キム・ジャギョム)であった。 一つは、彼女の父の出世を妬んで、彼女の「不祥事」、すなわち夫を殺し、男と山に逃げ、淫蕩の限りを尽くしていると上奏し、その父の失脚を狙う政敵の言である。もう一つは、彼女の夫の親友、それに彼女と共に山に入った女性の言である。 実は、李禮順は不倫のすえに逃亡したのではなく、「仏道」にまい進しろという夫の遺言を忠実に守り、また自己の内的欲求に従い、修行のために山に入ったのである。もともと仏教に熱心だった夫・金自兼は、親友・呉彦寛(オ・オングァン)と共に修行に励み、李禮順もそこに加わり仏教に傾注していったという。彼ら3人は、男女の区別なく修行に励み、寝食を共にしたと、柳夢寅(リュウ・モンイン=1559〜1623)はその著書「於于野談」(オウヤダム)に記している。また「自兼の妻禮順は人柄が立派で、文字を読むことができた。平素(男と)同席し、話しあい、少しも躊躇することはなかった。自兼の死後も彦寛は足しげく訪れ、禮順と親しくした。それを父である李貴が止めなかったので、国中の噂になった」と「李朝実録」の史官は書いている。 その後、彦寛の後を追い山に入り、剃髪、出家する。「竹を割り、庵を建て、厳しい修行に励むや、近隣の人々が彼女を慕い、布施に訪れた」(於于野談)という。だが、当時山に逃亡を図っていた逆賊と疑われ、審問されることになる。冒頭の人々の証言は、そのときのものである。 彦寛と共に獄につながれた禮順は、本来の容疑とは関係のないこと、すなわち彦寛との関係について審問されるに至る。病死した夫の遺志を継ぎ、彦寛に仏教の書物を紐解いてもらいながら、修行に励んできたこと、5、6歳の頃文字を覚え、15歳で嫁いでからも男女のことや俗世の喜びには関心はなく、夫も自分を世間一般の妻のようにはあつかわず、ただただ修行に明け暮れたことを言いながら、彦寛との関係については、「青い空の太陽のように一点の曇りもない」と言い放つ。 「私は女の身であるので儒学を学ぼうにも叶わず、世のために働くためには仏門に入るほかなかったのです。もしそれが罪ならば、私は喜んであの世に旅立ちます。死ぬことが生きることなのです」(於于野談)、(李朝実録、光海君日記、巻第81) 男性中心の儒教世界において、家父長的秩序によって疎外された女性の精一杯の抗弁であろう。文献に彼女の記録がこんなにも多く残っているのは、父・李貴が高官であり、政敵が多かったことにも起因する。李禮順を巡る一連の騒動や、疑惑は、既婚の女性であるにもかかわらず、夫以外の男性と話したり、夫の死後、夫の友人と出家したことに対する、当時の士大夫たちの驚きや顰蹙を物語っている。 裏を返せば、女性にとって困難このうえない時代にあって、自らの信念を貫き通した、時代に反抗した女性だったといえよう。もし、若い頃から放蕩の限りを尽くしてきた彦寛との間に恋愛感情があったとしても、それは至極当たり前の人間的感情であろう。だが彼女は、尹宣擧(ユン・ソンゴ1610〜1669)の「昏定編録」(ホンジョンピョンロク)によると、再婚することもなく、浄業院で比丘尼としてその一生を送ったという。(趙允、朝鮮古典文学研究者) [朝鮮新報 2004.7.26] |