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〈人物で見る日本の朝鮮観〉 長谷川好道

 長谷川好道(1850〜1924)は長州系の軍人で後に元帥に列し、軍人として最高位をきわめた人物である。

 その長谷川好道は、朝鮮にとって、2つの時期できわめて大きな接点を持っている。1つは日露戦争以後の韓国駐箚軍司令官として朝鮮に君臨したことであり、2つ目は、寺内正毅初代朝鮮総督の後を承けて第2代朝鮮総督として文字通り、朝鮮人民の生殺与奪の権を握ったことである。

 父は、長州藩の支藩岩国藩士で藤次郎といい、藩の剣術師範である。好道は幼きころより剣術に熟達し、神童の称を得ていた。また、学問の方は藩儒、東崇一につき、陽明学を修めている。年少の身で長州藩の精義隊に入り、戊辰戦争には、東山道先鋒として各地を転戦した。

 明治10年、陸軍中佐で西南戦争に参加、同19年少将、日清戦争に出征、殊勲を立て、男爵を授かる。同29年、中将となり、日露戦争には近衛師団長として出征、遼陽会戦で功ありとして大将にすすみ、そして明治38年10月中旬、韓国駐箚軍司令官(第2代)としてソウルに乗りこんだ。

 「韓国の上下は只遠く将軍の威容を拝して戦慄し、慴伏し敢て仰ぎ見るものなし。〜以て韓国の総督たる実権を有するものとし、韓国の活殺は全く将軍の胸中にせらるるものなり」(雑誌「朝鮮」明治42年1月号)と評せられたのは、あながち誇張ではない。

 長谷川着任の1カ月後に伊藤博文がソウル入りし、あの悪名高き乙巳保護条約を不法締結させることになるが、長谷川が軍司令官として、ソウル市内はもとより、朝鮮王宮にまで剣付き銃を持った軍隊を配置して、韓国の大臣たちを軍事威嚇しながらことを進めたことはあまりにも有名。その長谷川に、伊藤入韓に合せたと思われる明治38年11月作成の意見書がある。

 @は「韓国経営所感」、Aは「韓国経営機関の首脳に就て」(「伊藤大使韓国往復日誌」写本所収。朝鮮大学校図書館蔵)と題するものである。

 「韓国経営所感」は10項目に分れている。「一般の人民は愚痴蒙昧にこそある。慨して従順にして制馭し易し。〜故に我が対韓政策は其根本の主義に於て、官吏及準官吏等に対しては特に峻厳なるべく、之に反し一般人民に対しては所謂、一視同仁の誠を以て之に臨」めばよい、という。また、「対韓政策の実行は〜韓人の如く猜疑心に富み、且つ殆んど先天的詭弁を弄し、中傷を策するを雑輩を対手」としてはならない、とする。さらに「猜疑、虚構、中傷、詭弁は韓人殊に政海に游泳して征利を事とする雑輩連の唯一の手段」だから、これを是正するため「充分なる保護の下に一大機関新聞を設け」るべきという。この外にも、宮中と政府の別の確立、韓国軍隊の解散、警察権を日本が掌握すること、等々の提案をしている。

 また「韓国経営機関の首脳に就て」では、「対韓政策の実行は口舌の独り能くする所にあらず、必ずや実力の後援を待つ」と切り出して、韓国国王や政府大臣らには口頭または文事では動かないので、「兵馬の実権を掌握せる武官をして同時に経営機関の首脳たらし」めなければならないとする。「蠢愚にして無気力なる一般韓民に対しては、文武官の孰れを機関首脳たらしむも」かまわないが、しかし、「劣性に於て蛮民の境を距ること遠からざる彼等に対しては、圧力の伴わざる手段は到底効果を奏する事無し」ともいう。そして朝鮮統治について最後に「武断的手段を円満に実現せしむるの方法如何、曰く、韓国経営機関の首脳に擬するに武官を以てするに在るのみ」と結ぶ。武断統治の宣言である。重要なことは、彼の意見はそのほとんどが実行に移された。これらの具体的施策の根底には「人民は愚痴蒙昧にこそある」「蛮民の境を距ること遠からざる彼等」などの侮言に見られるように、空恐しいまでに徹底した朝鮮民族に対する偏見と蔑視観が横たわっている。

 彼こそは朝鮮での武断統治政策の創始者であり、後の総督時代と併せて、名実共に実行者である。

 1907(明治40)年、ハーグ密使事件で高宗の退位となり、第3次日韓協約で内政権を伊藤統監が日本側に奪った時、長谷川は強引に朝鮮軍隊を解散した。これより軍人たちは大挙して義兵運動に投ずることになる。「軍隊を解散して暴徒蜂起の大原動力を激発したる愚策に至りては〜長谷川将軍一代の失策たり」(「朝鮮」明治42年1月号)とは日本人居留民からの批判である。

 明治41年12月、長谷川は任を解かれ、軍事参議官、参謀総長を歴任し、1916(大正5)年10月、寺内の後を承けて、第2代朝鮮総督となる。世に寺内、長谷川の朝鮮統治時代を武断統治期というが、長谷川こそは、その基盤を作った人物である。

 やがて人々は知る。

 朝鮮民族に対する断乎たる武断統治の意見を具申し、自らも朝鮮人民に対する弾圧を熱病的に実践した長谷川好道こそは、3.1独立運動の膨湃たる革命的大衆蜂起により、身を以てその意見の誤りを覚らされた当年の朝鮮総督であったことを。(琴秉洞、朝・日近代史研究)

[朝鮮新報 2004.7.28]