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〈朝鮮歴史民俗の旅〉 風水(2)

 王朝の盛衰はとりわけ都や王宮の位置によるところが大きい。高麗でも朝鮮王朝の時代にもたびたび遷都論が持ち上がり、激しい政争が繰り返されていた。風水説は遷都論議に根拠を与え政争の具として利用されもした。

 高麗中期の1135年に、朝鮮史上最大の事件といわれる「妙清の乱」が起きている。一方は妙清に代表される遷都派。妙清は僧侶であったが風水や陰陽に明るく、政府の顧問という立場から平壌遷都を国王に勧めていた。他方は金富軾。新羅系の儒学者で、既得権を擁護するために遷都反対の立場にあった。

 当時、高麗は内にあっては李資謙の乱などで国情が乱れ、外にあっては金国の高麗侵略をひかえていた。妙清は、この危機的状況はまさに都の知徳の衰退、王朝衰微の兆しにありと見て、国王に遷都を進言したのであったが、儒学者である金富軾は慕華思想の立場から、大国である中国に従順でなかった高句麗は「反逆の国」であるのに、その国の都であった平壌に遷都するとはまったく道理に反することである、と反対したのである。この事件は風水説が否定され、遷都反対派の勝利で決着つくことになる。平壌軽視の風潮も朝鮮王朝に継がれていったが、最近では、遷都を主張した妙清の立場が正しかったものとし、平壌蔑視は金富軾の事大思想による偏見であったと見直されている。

 遷都論議は朝鮮王朝建国直後にも起きている。王師無学が国王李成桂の王命を受けて新都候補地を巡り、風水的熟考を重ねた上で現在のソウルを都にすることを勧めている。王師に勧められて現地を踏査した李成桂は、その形状が王都にふさわしいものと判断し、即刻王都の着工を命じている。当時、ソウルを漢城と呼んだ。漢城府が風水学上王都にふさわしい理由は何であったのか。それは風水の三大要素である風と水と土が理想的に符合しているところにある。漢城府は、北側に幾重にも連なる北岳山の山々とその主脈を受けた三角山を主山としている。その南麓に王宮が造営されているが、東側に青龍となる駱駝山が、西側に白虎となる仁旺山の峰が鎮座し、南に冠岳山(南山)が案山として構えている。そして王都に清渓川が流れ、さらに漢江という大きな川が、ゆっくり蛇行しながら西海に流れつくのである。

 にもかかわらず、漢城府にはいくつかの欠点があった。白虎が二重であるのに対して青龍は一重で、しかも途中で途切れていること、南の冠岳山が風水上火気を帯びていることである。李成桂は主山の三角山の麓の明堂に景福宮を配置するとともに、欠落した青龍に重層な石塁を設け、火気の帯びた冠岳山に向けては、海神を象徴した二基の石像をおくことで欠陥を補っている。漢城府は、まさに五百年の王都にふさわしい景観であった。風水説が呪術や迷信と同義語とされてきたのは、朝鮮王朝のもとで風水説が儒教と結びつき、もっぱら墓探しの手段として活用されたことに原因がある。儒教国の最高の徳目は孝を実践することにある。死者を生前のごとく鄭重に奉ることによって、生者とその子孫の幸福と家門の繁栄が保障されるものと信じられていた。当時、一般家屋の土地を陽宅といい墓地を陰宅といった。風水説は陽宅にも用いられていたが、人々の風水に対する関心はもっぱら陰宅に向けられていた。

 陰宅風水にもやはり主山、青龍、白虎、案山といった用件が問われるが、その上に形状が問題となる。例えば、「金鶏抱卵」は金の鶏が卵を抱えている形。「蓮花浮水」は美しい蓮の花が水に浮いた形。「玉女織機」は美しい仙女が機を織る形。場所がミョンダンでその形状が上のようであれば、一等級の墓である。しかし、すべてがそううまくいかないもので、どこかに欠落したところがあるものだ。そういう場合では、裨補として盛土をしたり、視界や風をさえぎるための植樹をして備えた。

 プンスジェンイと呼ばれたプロの風水師たちが活躍していた。彼らは墓地の選定に立ち会って、山の方位、大小、起伏、順逆などを見ながら風水の吉凶を判定し、同時に下棺の日時や方角の指示も行った。

 ミョンダンとあれば、両班も常民も血眼になって駆け回っていた。有名なミョンダンはほとんど有力な門中が占有していたから、それ以外の、まだ人に気づかれないミョンダンがあると考えて、墓場探しに金と時間を注いだ。朝鮮の国土は墓探しの舞台となっていたと言っても過言ではない。

 行き過ぎた陰宅風水に対する批判はかねてより行われてきた。近代以前でも実学者たちはおしなべて陰宅風水反対を表明していた。丁茶山は「吉地であれば墓の骨は保護されようが、子孫の繁栄はそれとはまったく関係のないことである。もし、関係があるとしたらどうして風水師の子孫たちが卑しい身分であり続けているのか」、と疑問を投げかけて改善を求めた。

 確かに陰宅風水は合理性をまったく無視した悪習で、呪術・迷信のそしりを受けても弁解の余地を残すものではない。しかし、土葬の風習がいまなお残されている状況のもとで、この民族のミョンダンに対するこだわりが現にあるのも事実である。墓地と墓石にこだわる日本人もそうであるが、人々の心を捉えた文化的儀式は古くとも根強いもので、いましばらくの時間を要するものである。(朴禮緒、朝鮮大学校文学歴史学部非常勤講師)

[朝鮮新報 2004.7.31]