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〈生涯現役〉 朝大生の前で講演、学べることは幸せなこと−李福順さん

 かつて朝鮮の女性たちは、文字を習うことも、学校へ行くことも、人前に姿をあらわし意見を述べることさえも禁じられていた時代があった。それは遠い過去の話ではなく、われわれの母や祖母の生きたごく最近のできごとでもある。

自分で学ぶ

 東京都中野区在住の李福順さん(79)は7月9日、朝鮮大学校(小平市)を訪れ、文学歴史学部の生徒ら130人を対象に特別講演「私と朝鮮古典文学」を行った。「昔、朝鮮の田舎ではひとつの村に文字を書ける人が1人いるかいないかだった。新聞だって1、2部、来るか来ないかだったのだから」と李さんは語る。

 故郷は慶尚北道奉化郡。慶尚北道の北部地域は、小白山脈、太白山脈の分岐部にあたり高峰が連なっている。李さんが幼い頃を過ごした奉化郡は、1000メートル以上の山々がそびえる慶尚北道一の山岳地帯である。

 そこで李さんは山でどんぐりを拾い、それを集めて「ムッ」を作り、市場で売ってお金に替えた。「当時は若い女が市場になんて行けなかった。だから家の者に頼んで、売ったお金で筆を買ってもらった」。

 今のように紙も豊富になかった時代、李さんは新聞紙を水で洗い、乾かし、それを数回繰り返してそこに文字をなぞり書いた。「文字と言っても『千字文(漢字)』ではなく『諺文(ハングル)』。誰も教えてくれる人がいないから自分で勉強した。なんで『鼻』と『豹』で『亜』とわかったかなぁ。それくらい諺文は、女、子ども、千字文が読めない百姓でも読める簡単な文字だった」

同胞のための知識を

 その後、李さんは「チャンキ伝」「キムジノク伝」「オリョン伝」などの古典小説を丁寧に紙に書き写した。13〜15歳の頃のことだという。今も残る長編小説3冊分をみごとに写した書物に感心しながら、写真を撮ろうと近寄ると、「筆の持ち方も教わらずに勝手に書いたものだから字もめちゃめちゃ。写真を撮ってはダメよ」と、記者を制した。

 16歳で家族と共に日本へ渡った。「当時は結婚してない若い女は、日本の兵隊のご飯炊きに連れてい行かれるという噂があった。今考えるとあれが『慰安婦』だったんだね」と眉をひそめる。

 故郷を離れる際に李さんが書き写した書物は倉庫の中にしまってきた。数年前、故郷に戻り倉庫を開けると、当時の書物が大切に保管されていた。「父が紙に油を塗ってくれた」ので長持ちしたのだった。

 日本では洋服の仕立て屋をしていた男性と結婚。「根がつくと兵隊に連れて行かれる」危険があったため、家族は一月置きに引っ越した。疎開先の千葉県では井戸水でおしめを洗っていたときに空襲警報が鳴り、防空壕から戻ってくると、おしめもたらいも「穴ぼこだらけになっていた」。

 解放後は茨城県・川島の朝鮮人集落で子どもたちに朝鮮の文字を教えた。「小学校2〜6年生くらいの子ども7、8人を集めて小さな部屋で、カ、ギャ、コ、ギョと教えたんだよ」。

 その後福島県に移り、夫は同胞たちとともに福島朝鮮初中級学校、総聯福島県本部、朝鮮信用組合設立に励んだ。李さんも女性同盟福島県本部の設立に力を注ぐ。初代・委員長に就任。5男2女の母、孫は20人にのぼるという。

 朝鮮大学の生徒たちに古典文学と自身の経験を語った李さんは、「あなたたちが大学で学べるということはとても幸せなこと。両親に感謝なさい。隣の人を愛し、同胞のために知識と力を使ってくださいね。よろしく頼みますよ」と話していた。(金潤順記者)

[朝鮮新報 2004.8.2]