李綿玉詩集「いちど消えたものは」を読んで |
李錦玉さんの一行一行のことばは物静かなのだが、行を追うごとにあるうねり、思いのほとばしりを読み手に与えうなずかせる。それぞれの草花を歌っても、動物たちのしぐさや動きを歌っても、はじめは冷静にゆっくりと細部を描写しているのだが、いつしか詩人の心の底に熱くたぎっている思いへと導かれていく。何か語らずにはいられぬ思いを、彼女はいくつも抱えているらしい。 池のほとりに枝をひろげ、ひっそりと咲く椿の古木。 その赤い花を描く作品「色も音も」も、彼女らしい一篇であろう。立ち寄った寺の大きな山門によりかかってみられたひとつのささやかな光景。何気ない風景詩に過ぎない素材なのに、何ゆえに心に染みてくるのだろう。たぶん、それは終連近くの「見事に花ひらき/見事に花散るために/そこに深く根づいて立っていたのか」の詩行ゆえであろう。ひっそりと咲き、散りつづける古木。根なし草でなく、みずからの存在をひそやかに位置付け物語る古木の風情に、彼女はそれとなく読み手を導き行こうとする。 例えば、彼女の樹木や草花に寄せる思いは、はるかな生命の鼓動に通底しているらしい。作品「秘密」は、五千年も生き続ける樹木への憧憬だが、きっとこの青い地球はそんな聖なる場所を秘めているのだろう。口を閉ざしている学者の深い思いに、私たちは心魅せられる。生命を生き継ぎ、はるかな時間の果てへと手渡す私たち地球のいとなみ。さまざまな歴史の痕跡を、その時々に眺めながら、今を生きる詩人がほのみえてくる。 バラ園の持つ独特な気配、人生の深い翳りを漂わせるバラ園を歌う作品「バラ園の季節」も、格別に味わいの深い一篇。「花のあいだを巡るひとたちは みな静かで/それぞれの時を惜しむ 少しおそい秋の表情です。」人生や時代をじっくりと眺め、その感触をさまざまに味わい、そして、ひとはゆっくりと語り始める。詩は、そんな言葉と言葉の結び目に、ひそやかに息づくらしいと知らされる。 李錦玉という詩人の存在を子どもたちは、きっと絵本の「さんねん峠」や「へらない稲たば」を通じて知っているのだろう。多くの子どもや大人たちに親しまれる絵本を、彼女はいくつも出している。その味わいあるリズミカルな言葉の運びは、長い詩作ゆえに生み出されているのだろう。このたび、彼女が長い間に書き継いだ詩作品を、一冊にまとめようとした思いは何だったのだろう。 この詩集の後半には、幼い子どもたちや彼女の周辺にいる、親しい子どもたちに語り掛ける詩篇がいくつか並んでいる。私は、ほほえみを持って、それらの詩篇に心動かされる。例えば「なかよし」の詩行。夏休みの昼下がり、洋菓子屋さんでの出来事。ジャンボのチョコレートパフェを、おでこをくっつけて食べる友だちとの場面。思い出は、友情は、こんなささいな光景や出来事を通じて生まれるのだろう。作品「親と子」に描かれる幸せな子ども像、親子像も、たいせつな詩のテーマといえよう。 これからも彼女には「キャベツ畑」のような夢想性のある、たのしい子ども世界と共に、人生の厳しさや、深みのある光景を同時に描いてほしく思う。 詩集「いちど消えたものは」にこめられた、ひそやかな詩人のメッセージが、次代を担う子どもたちに、新たな問いと感動を呼び起し、ゆるぎなく、ゆっくりと継承されていくことを願う。(詩人、児童文学評論家・菊永謙) [朝鮮新報 2004.8.9] |