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〈朝鮮史を駆け抜けた女性たちB〉 済州島の豪商、金萬徳

 「済州島の永遠なる母」、「犠牲と奉仕の済州島の母」。その生涯、一度も子を産むことがなかった金萬徳(1739〜1812)を、今も済州島の人々はこう呼ぶ。

 農業が発達し、商業の活性化という当時の社会的背景を受けて、女性たちの中にも経済的に成功する者が出てくる。その中でも、金萬徳は多くの資料にその存在を認めることが出来る、稀有な存在である。「李朝実録」や、蔡濟恭(1720〜1799)の「萬徳傳」、朴齋家(1750〜1805)の「貞蕤集」、劉在建(1793〜1880)の「里郷見聞録」などに、詳細は少しずつ違うが、彼女の活躍や、その生涯の記録はおおむね同じように記されている。驚くべき生涯である。

 金萬徳は18世紀後半に活躍した、豪商であった。10余歳のとき孤児になり、良家出身にもかかわらず、妓生として売られる。妓生は賎民の身分であったため、一度官によって登録されてしまうと、抜け出すことが容易ではなかった。萬徳は20歳を過ぎると、本来の良民の身分に戻すことを嘆願し、紆余曲折の末妓生の身分から抜け出すことに成功する。幼い頃に両親を亡くし、妓生として辛酸を舐めなければならなかった少女の苦しみは、察するに余りある。

 ところが萬徳は、その苦労をも自身の商人としての成功のこやしにしてしまうほど、逞しい女性であった。流通網が商業の成功にはなくてはならないものだということにいち早く気づいた彼女は、内陸と済州島の物品の流通に携わる。当時、内陸の各地では市がたち、馬による陸運が盛んになり、海や川では商業船が水運を担い、商品を流通させた。そこに目をつけた萬徳は、港に旅館を建て、商人たちを泊める傍ら、彼らから商品を預かり中間マージンを取ることを始め、妓生時代の経験や人脈を生かして、島内の上流階級の夫人達に、衣服やアクセサリー、化粧品などを内陸から仕入れては売った。また、島の特産品であったみかんや鹿茸などを、内陸向けに売りさばいた。

 とうとう、官庁の物品まで独占的に取り扱うようになり、港の流通を独占的に扱う「浦口主人権」まで獲得したようである。

 そればかりか、自分の港に積極的に商船を誘致し、自身の船まで購入するに至る。変化する時代の最先端であった。巨万の富を得た萬徳は、どんな贅沢も思いのままであったはずだ。だが、彼女の生活は清貧であったらしく、多くの人々から尊敬を集めた。

 そんな折、1792年から95年の間、済州島は度重なる飢饉に襲われ、台風の被害まで受け、朝廷からの救済米を積んだ船が沈没するや、全島民が餓死の危機に瀕することになる。

 実際、餓死者は全島民6万人中2万人にも及び、済州島において未曾有の大惨事だったという。そのとき金萬徳は、自身の全財産を処分し、内陸から5百石の米を買い島民に捧げたのである。当時の済州島の高額寄付の記録によると、ある官僚が3百石、将校や儒学者が100石とあるので、萬徳の寄付は並大抵のものではなかったことがうかがい知れる。

 済州島の牧使李兎絃は朝廷に次のように報告している。「済州牧使は、妓生萬徳が私財をなげうち、島民の命を餓死から救ったと報告している。褒美を取らせようとしたが萬徳は固辞、その代わりに海を渡り上京し、金剛山遊覧を希望する。王は快諾し、(金剛山の)周辺の村々に、萬徳のため糧食を共することを命じた」(李朝実録 正祖20年11月25日)。1796年のことである。当時の法律は、島外への女性の外出を禁じていたため、朝廷は特別に萬徳を「内医院 医女班首」という位を便宜的に授け、金剛山遊覧を実現させた。萬徳はその後、位を返上し、さっさと帰郷する。

 その後、萬徳は結婚することもなく、1812年10月、74歳でその生涯をを閉じる。今でも済州島では、金萬徳の恩を忘れず、金萬徳の生涯を展示した記念館や記念碑を建て、また「萬徳賞」を設け、毎年「模範女性」を表彰するという。だが、21世紀になった今でも、金萬徳のようなダイナミックな、そして慈愛深い、社会的に「目覚めた女性」を見ることは、容易ではないだろう。(趙允、朝鮮古典文学研究者)

[朝鮮新報 2004.8.13]