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〈人物で見る日本の朝鮮観〉 大隈重信(上)

 大隈重信(1838〜1922)は明治期に1回、大正期に1回、計2回、総理大臣になったことのある、近代日本政治家中の大物である。大隈の満84年の生涯を短文中に表現することは、その長い政治的経歴と、波瀾に富んだ人生、およびかれの複雑な性格などを考えると仲々、容易なことではない。常に伊藤博文とその存在を並称され、伊藤のように直接、朝鮮民族の運命に深刻に関わった記録はないにしても、大隈はその職責上、またはその政治的地位からいわば陰に陽に朝鮮問題に関わり、時折、新聞、雑誌に発表されるその朝鮮観は、民衆に大きな影響を与えたものである。

 大隈は九州佐賀の生まれである。家は代々鍋島家の家臣で、父は信保、母は三井子と言った。何でも大隈家の遠祖は菅原道真、という言い伝えがあるらしい。鍋島藩は1641(寛永18)年以来、福岡藩と一年交代で長崎警備を命ぜられていたが、父信保は、家代々の石火矢頭人(砲術長)として長崎の守りにあたったという。

 大隈は7歳で藩校弘道館に入学した。ここで徹底的に漢学をたたき込まれる。弘道館での教育内容の基本は、儒学(朱子学)と鍋島独特の「葉隠」教、それに蘭学である。

 大隈は後年、「葉隠」に批判的に対しているが、彼の生き方自身が「葉隠」的だったようなのはいささか皮肉でもある。若い大隈に思想的に大きな影響を与えたのは、江藤新平と同じく弘道館教授枝吉神陽の尊王思想である。神陽は、国学に深く、楠公父子崇拝に基づく義祭同盟を主宰し、実弟副島種臣、江藤新平、大隈重信、大木喬任ら、つまり、後の佐賀出身の維新の功臣たちを尊王思想で教育した。ここで大隈は、「古事記」「日本書紀」をはじめとする古代の歴史書、法制書などを学んでいる。

 やがて大隈は蘭学寮に入り、蘭学に打ちこむ。そして5、6年後、蘭学教官となるが、咸臨丸の帰国により、アメリカ文明の高さを知り、大隈は長崎で英語を学ぶことになる。

 幕末、鍋島藩もご多聞にもれず、尊王攘夷の思想に支配されていたが、ヨーロッパ列強の情勢を知るにつれて、攘夷の無謀なるを知り、江藤、大隈らの先進分子は、次第に尊王開国論に傾いていった。ついに大隈は脱藩して京都に入り、幕府の大政奉還を策すが、このことで藩命で帰藩させられ、藩法で切腹というところを、藩主鍋島閑叟の特旨により、謹慎1カ月余りで許される。

 やがて、徳川幕府は倒れ、明治維新となる。明治政府の初期の構成は天皇に近かった公卿と薩長土肥(土佐―高知、肥前―佐賀)の人物たちである。

 もう、大隈の経歴や事蹟を追うことは控えたい。しかしながら、明治6年の征韓論沸騰時、参議という政府大臣の重職にあった大隈が、どういう考えでこの問題に対したかは知る必要があろう。

 彼は明治28年、(日清戦争の最中)早稲田の私邸で「昔日譚」を口述筆記させ、「郵便報知新聞」に連載し、5月に一巻の書として発刊したが、題して「大隈伯昔日譚」といい、ここに当時の「征韓論」の経緯について精しく論じている。

 いやしくも征韓論を論じようという人にとって、この本は実に重要である。重要さの第一は、征韓論の由来と具体的経緯を大隈なりに明らかにしたことと、次に当時の参議たち(征韓派も非征韓派の人物たちも)の征韓についての考え方と、その政治的動機と思惑および心事を大隈なりに冷静に分析してみせたことであり、第三は、ともあれ、大隈自身の非征韓派としての立場と反対の理論的根拠を自ら明らかにしたことにある。「神代の伝説に依れば、日韓両国は元と純然たる一国にてありしものの如し。……、神功皇后のときに至り、熊襲の憂また起りしを以て、皇后は親ら六師を率いて之を征し、……、海を渡りて深く韓地に入り、一挙して其の君民を我が化に服せしめ、……、爾来殆んど三百年、三韓の地は全く我に臣属して朝貢聘問の礼を欠かざりし」とは、当時の征韓論者と同じ認識だが、本当に征韓の師をおこせばどうなるか、「韓の地たる国貧に民弱く、畢竟、我が敵にあらざるは固より言を待たざれども、疆域相接して交通常に絶えざる清国の、夙に父国として之れに臨むあり、覇心蓊勃として、舌噬(侵略)の慾、果てしなき露国の久しく涎を垂れて南下せんとするあり。わが国より一たび干戈を動かして韓の地に臨むに於ては、清露の両国は、起ちて我れと相争うに至らん。清起ち、露起たば、英も動かん、仏も動かん、独米も亦た動かん」そうなれば「外交上に収拾すべからざる一大事変を現出せんも、未だ測り知るべからず」という読みである。大隈は明治政府内の征韓論争で、非征韓派の大久保利通の下で、伊藤博文と共に左右の手足となって、大久保を助け、ついに西郷、板垣、江藤らの征韓派に勝利したが、その非征韓の論理は、「内治優先」論の大久保や岩倉などとも大きく異なっていた、と言えるようだ。(琴秉洞、朝・日近代史研究家)

[朝鮮新報 2004.8.18]