〈朝鮮歴史民俗の旅〉 盗賊(1) |
盗みをはたらく者を盗賊という。盗賊は世界どの国にも、いつの社会にもいるものだ。窃盗も強盗も、山賊も海賊もみな盗賊の部類に属する。 朝鮮に三大盗賊がいた。洪吉童、林巨正、張吉山の3人である。洪吉童は燕山君の時代にほぼ朝鮮全土を荒らしまわっていたし、林巨正はそれより半世紀下って明宗王の時代に、「大盗」の名をほしいままにして暴れまわった。 それから130年後には張吉山なるものが現われたが、彼は民衆から「英雄」とまで称えられた盗賊の中の盗賊であった。この内、洪吉童と林巨正は逮捕、処刑されているが、張吉山はついに捕まることなく行方をくらまし以後の消息を絶っている。 日本にも歴史上盗賊と呼ばれた者が3人いた。まずは石川五衛門である。安土桃山時代に大盗人で一世を風靡した五衛門は、後に捕らえられて釜煎りの刑に処せられるが、その豪放さからいって日本屈指の盗賊にまちがいない。 「白浪五人男」で知られる日本駄右衛門(浜島庄兵衛)がそれに次ぐ。延享年間に多数の手下を連れて東海道を荒らしまわった大泥棒で、捕らえられてさらし首に処せられている。 最後は、幕末の天保年間に武家屋敷を襲って、3000両の大金を稼いだ鼠小僧次郎吉である。上の両名に比べるといささか小粒ではあるが、手口は巧妙ですばやくなかなかの人情者であったらしい。 同じ時代の朝鮮と日本に、三大盗賊が現われるのはまったく偶然の出来事で、両者は何のかかわりもない。以下に、朝鮮の三大盗賊のプロフィールとその活動ぶりを紹介する。 洪吉童は朝鮮第一の盗賊である。名門両班の出身で父親の洪判書は王朝政府の大臣を勤めたこともある。しかし、名門出身でありながら母が卑しい下女であったため、彼は両班を名のることが許されなかった。科挙試験を受ける資格も与えられないので出世の道も閉ざされていた。 吉童は聡明で高い学識を持ち、しかも、風を呼び、雨を降らす「呼風喚雨」の術と、巧みな「隠遁術」を習得していた。だが、身分が運命を決める不平等な社会にあっては、資質も能力も彼を生かすものではなかった。 吉童はついに家出を決行し盗賊の群れに身をおいた。文武に通じ妖術を身につけていた彼は、たちまちにして頭角を現し、数十人の盗賊を配下に従わせた。そして「活貧党」を組織してその首領となった。 「活貧党」の首領・洪吉童は、神出鬼没の妖術を駆使して、慶尚道の海印寺、咸鏡道の咸興の官営を襲った。また、ソウルの宮廷に向かう穀物運送隊を急襲して、奪った食料を近辺の貧しい住民たちに配った。噂は広がり盗賊たちが各地から集まった。 朝鮮王朝実録は当時の洪吉童の動向について次のように書いている。 「強盗・洪吉童は玉貫子(冠の紐)と紅帯を身にまとい自ら僉知事を名乗った。白昼に群れを引きつれ武器を持って官府を襲う。恐れを知らぬ輩である」 玉貫子と紅帯は、朝鮮王朝の正三品の官吏に許された官服であり、僉知事とは中央政府の中枢府の要職である。盗賊でありながら高級官吏の官服を身につけ、官位を詐称して知事を名のるとはもってのほか。それだけでも死罪にあたいするというのに、吉童の悪事は際限なく拡大し、その被害は全国に波及していった。 洪吉童を名乗る者が、各地に同時に現われ盗みをはたらいたという記録がある。彼は無数の替え玉を使っていたらしい。 王朝政府は吉童の「活貧党」に手を焼いていた。事件のたびに官軍を派遣するが結果は無残であった。彼らは正規軍にまさる武力を駆使していたのである。 洪吉童の結末はどうなったのであろうか。 洪吉童をモデルにして書かれた小説「洪吉童伝」によれば、王朝政府は洪吉童をなだめるために、国防の最高責任者である兵曹判書の地位を授けて王命に従わせたという。また、彼自身は配下の盗賊どもを率いて無人島に渡り、そこで理想の国家を建てて国王になったと書かれてある。しかしこれは作者のフィクションであって事実とは異なる。 洪吉童は1500年に逮捕されて処刑されている。国家反逆罪であるからさらし首にされたものと思われる。 盗賊としての林巨正の活動は1559年からの3年間である。林巨正は京畿道楊州出身の最下層民・白丁であった。白丁とは大道芸人などとともに、畜獣の屠殺や柳細工の製造販売に従事する賎民である。彼の職業は柳器匠で、盗賊になるきっかけはその職業と関連している。 黄海道の黄州・安岳・鳳山は葦の産地で有名な所である。柳器匠の白丁たちはその葦を刈り、それを結って生計を立ててきた。問題の発端は、王朝政府がこの葦刈り場を官庁所有地に定め、そこに出入りする者に税金を課す、と一方的に決め付けたことにあった。一朝にして職を奪われた人々は途方にくれた。 林巨正もこの時失職して路頭をさまよっていた。先の洪吉童は、差別と迫害を理由に盗賊の道に入ったが、林巨正はひもじさに耐えきれず賊門に入ったのである。(朴禮緒、朝鮮大学校文学歴史学部非常勤講師) [朝鮮新報 2004.8.21] |