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〈人物で見る日本の朝鮮観〉 大隈重信(下)

 廟堂での征韓論に敗れた西郷は、明治10年、西南戦争を起して敗死し、非征韓派の総師たる大久保も明治11年、出勤途中、征韓派士族島田一郎たちにより暗殺される。そして、大久保亡き後の明治政府の実権は、自然、大久保の手足となって動いていた大隈と伊藤の両人が握ることになる。この両人のいわば政治上の力関係を見るに維新直後期から、明治14年政変で大隈が政権の座を追われるまでは、常に大隈が伊藤の上位にいた。しかし、この位置関係は14年政変で完全に逆転し、伊藤の死まで続くことになるが、大隈の心中では、俺は伊藤の兄貴分だ、との思いが渦まいていた。大隈は、14年政変で薩(黒田清隆)長(伊藤博文)派に追われるや、翌15年3月、改進党を結成して、その総理となり、9月には、早稲田大学の前身・東京専門学校を創立する。彼は政党活動を通じて民衆を啓蒙し、教育事業を通じて人材を養成することに着手したのである。もとより終局の目的は政治権力の座である。この後の大隈は、明治21年、政敵だった伊藤内閣の外務大臣になり、翌年、条約改正問題で爆弾を投げられ片足を失う。また明治29年、松方正義を首相とする松隈内閣で外務大臣に返り咲くが、明治31年、ついに板垣とともに隈板内閣をつくり、首相、兼外相となる。大隈を戦後、ある評論家が「権力に憑かれた一生」と評した所以である。

 ことほど左様に権力に執着する姿を垣間見せる大隈だが、一面、「民衆政治家」とも云われて国民の間に人気があり、折にふれて発表される彼の発言は、広く国民の共感をよんだのも事実である。

 そして、その中には少からざる朝鮮関連発言がある。例えば1905年11月の「乙巳保護条約」の強制締結の直後には、「伊藤公が遣韓大使の大命を拝すると同時に、対韓政策の活動となり、公が京城に入って以来旬日を出でず、急転直下の勢を以て、具体的宗主権の確立を見るに至った。……。由来、韓国皇帝は○○主義の質である、動もすれば日本に対して、面従腹背の嫌の有りし御方であった……。人或は尚ほ、韓国上下の面従腹背を懸念するかも知れないが、韓国の為めを謀って云へば、面従腹背は徒らに彼王位を危くするのみである」(「大隈伯百話」)と、説くのである。

 大隈は翌明治39年3月、在韓日本人商業人代表たちに対して「韓国経営意見」と題する談話を行っている。「伊藤侯が、今回韓国統監として渡韓された……。元来、弱きを扶けると云うことは所謂、義者の仕事である。憫むべき不幸な人間を救うと云うことは、所謂、仁者の仕事である」。これは恐れ入った。伊藤が統監として韓国に行ったのは、弱い国を扶け、憫むべき不幸な朝鮮人を救うための、義者、仁者の役割を果すためだというのである。

 また次のようにもいう。「(韓国人の)先祖は我々と同じである。日本の歴史から云へば、韓国は上古の日本の殖民地である。或は韓国の歴史から云ったならば、日本の国土は韓国の殖民地であると云うかも知れぬ。日本の古代史に於ては疑もなく韓国は日本の殖民地である。さうすれば同一の人種である」。

 この時期の他の人々の発言と多少違うのは、韓国の歴史から見れば、日本は韓国の殖民地だろう、といっていることである。また、「将来に於て朝鮮はどうなると云うと、日本人が地主となり、資本家となり、朝鮮人は番頭、手代、売子で、製造ならば労働者、土地ならば小作人と云うやうな工合になるであろう」という。当時といえども、これ程露骨に、日本、朝鮮の優劣関係をいってのけた高位者もいない。まもなく朝鮮は日本によって強奪される。併合直後、大隈は「朝鮮合邦を如何に見しか」で「朝鮮は貧弱だとか荒廃に委せられて居ると言うが、夫は実に此方の願う所で、これが富国であって富力が一杯に開発されて仕舞ったものであれば、此方の手の着け所がない訳になる」(「吾輩の社会観」)というが、これはまた正直な本心の吐露である。大隈は雑誌「朝鮮」の明治43年11月号に「対韓政策及所感」なる文を寄せ「朝鮮を統禦して行く上に於ては、懐柔主義を執るのが得策か、或は威圧主義を執るべき」か、と冒頭、自らから問いかけ、「懐柔主義も徒に韓民の顔色を覗ったり」することで駄目で、威圧主義も「韓民の服しない者を皆捕へて死刑に処して了うとか」では+と説き、種々の提案をした後、「対韓政策も対韓経営策もその基本問題は彼の地に大和民族を発展せしむる事にある」と、他民族征服の基本に論を帰着させるのである。また、雑誌「朝鮮」が明治44年1月号で「朝鮮人を如何に教育すべき」と特集を組んだ時、「朝鮮には元来歴史と云うものは無い」と断言し、「要は、日本語を彼等に普及すればよい。日本語が出来る様になってから朝鮮人は日本人になるのである」という。これは日本の植民地当事者が、全くその通り行ったもので、「民衆政治家」との評判を得た大隈重信だが、大正3(1914)年、第2次大隈内閣を組織して、首相となり、「対華21ヶ条要求」を中国につきつけて侵略的体質を暴露したのと同様、その本質は全く変っていない。(琴秉洞、朝・日近代史研究家)

[朝鮮新報 2004.8.25]