〈朝鮮歴史民俗の旅〉 盗賊(2) |
林巨正は聡明で腕っぷしも強く、人心掌握においては天才的な才能を持っていた。しかも、智略にたけ人情も厚く、白丁の世界にあっては親分と慕われていた。頼りがいのある人物だったので、数十人の白丁たちが義兄弟の契りを結んで彼の配下に集まった。 拠点を開城の山奥において、彼の盗賊行為は始まった。彼らははじめから腹が座っていた。失うものがなかったから恐れることもなかった。 手始めに田舎の官営を襲って米を略奪した。次に、野武士のように山道を封じて、金持ちの荷車を襲い金品を巻き上げた。戦利品は公平に分け、残りは貧しい者や病弱な者などに分け与えた。 噂が広がると各地から白丁が集まり群れをなした。官営を襲って武器を調達したが、ふくれあがる配下の盗賊の数にはとても満たなかった。そこで、山の谷間に鍛冶場を設けて、刀、弓、槍、大槌を作って新参者に与えた。 林巨正の盗賊隊は各地で盗みをはたらいた。 黄海道、江原道、平安道にも現われ、ついに首都のソウル中心街にも出没した。襲われたのはもっぱら大地主と権勢家。宮廷に運ばれる貢物や租税も狙われた。 白昼堂々と現われ、大門を大槌で叩き壊し、穀物と家財の一切を運び出すという手荒い手法に、両班と権勢家は震え上がった。しかし、貧しい者や下僕には手を出さなかった。もしもそのようなことが発覚すれば、手を下した者を打ち首にするという掟が林巨正によって定められていたからである。 王朝政府は林巨正に懸賞金を懸けた。王朝の実録は次のように書いている。 「林を捕まえた者には、良人であれば官職と布を、郷吏、駅卒、公私の賎人であれば、免役か免賎を許し、さらに盗賊の財産を奪って与える」 1562年1月、林巨正は討伐軍によって逮捕された。懸賞金に惑わされた一人の参謀の裏切りが発端であった。彼が捕らわれた夜、捕盗庁(警察庁)の官舎は祝勝にわいたが、ソウルの街はひっそりと静まりかえっていたという。 張吉山についての記録は粛宗王時代の王朝実録に2回見られる。彼も卑しい身分の出身で大道芸が職業であった。やはり社会的差別に不満であったのが盗賊のきっかけであったようだ。しかし、大盗人でありながら彼の詳細な記録は少ない。行方をくらまして捕まることがなかったため、記録として残されなかったのだ。 そんな記録の少なさにもかかわらず、張吉山が並の盗賊ではなかったことを1697年の実録は伝えている。 「張吉山は僧侶の勢力とくみして、また地方の有力者たちを引き入れ、鄭姓真人と崔姓真人を立てて新国家の開国をもくろんでいた」 ここから明らかなことは、張吉山は単なる盗賊ではなく、国をも呑む政治的大盗人であったということだ。 朝鮮人は三大盗賊を「義盗」と呼んできている。「義盗」とは大義ある盗賊という意味である。大義は人のふみ行うべき重大な道義。盗賊に大義とは何ということなのか。 それなりの理由が朝鮮の盗賊にはあった。 洪吉童に代表される朝鮮の盗賊は、常にその矛先が腐敗しきった官吏や両班に向けられ、悪政の犠牲者である民百姓を救うことを名分に掲げていた。権力の側から見れば「極悪非道の強盗」であったが、民衆の側からは「貴人」「恩人」と慕われたのである。 日本の三大盗賊は、その目的において社会正義という大義が薄れ、私利私欲のためのドロボーというイメージをぬぐえないが、朝鮮の盗賊たちは「悪を懲らしめ善を助ける」という大義名分を掲げての盗みであったのである。 日本の盗賊は個人か小集団で、その手法においても大胆さに欠けるが、朝鮮の盗賊は白昼堂々官舎を襲い、悪大官やら悪徳地主を吊るし上げ、米、綿布などの略奪品を民衆に分け与えて立ち去るという、大胆不敵な方法をとっていた。 彼らのこの大胆さには、悪事をはたらく者のうしろめたさなど微塵も感じさせない。むしろそれは、英雄気取りの勇ましさというべきである。おそらく彼らは悪事をはたらきながらも、自らを社会正義のためにたたかう志士であると自負していたのかもしれない。 洪吉童も林巨正も張吉山も被差別人であった。この3人には身分の卑しさという共通点とともに、たとえ盗賊とはいえ、上に立つものとしての共通の資質が見受けられる。聡明であること、指導力と組織力があること、大胆でありながら用意周到であること、そして義理と人情に厚いこと―などである。 義盗という呼び方には、優れた才能を持ちながらも悪事をはたらかざるをえなかった彼らに対する民衆の熱い同情が込められているのかもしれない。(朴禮緒、朝鮮大学校文学歴史学部非常勤講師) [朝鮮新報 2004.8.28] |