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〈生涯現役〉 ヘルパー2級、高齢者を介護−康好仁さん

 あと4カ月で、80歳。しかし、この人には「高齢者」という言葉は似合わない。ヘルパー2級の資格を取って、日々、老人や障害者の介護に励む現役。趣味のピアノで世界の名曲を弾きこなし、ソシアルダンスは何でもOK。外国旅行はどこにでも1人でブラリと出かける。書は4段。朝鮮刺繍もプロ級の腕前で、居間に飾られている朝鮮虎は立派な芸術作品だ。

 こんなに若々しく、エネルギッシュな日々を重ねる女性同盟東京都豊島支部顧問康好仁さんの人生の扉を開けてみると−。

上海疎開地生まれ

ピアノもダンスもプロ級の康好仁さん

 康さんは、1925年1月3日、上海のフランス疎開地で生まれ、5歳までそこで育った。

 「当時としては非常にモダンな暮らしぶりだった。朝はオートミール、昼はパン食。5年後に帰国して朝鮮であわのご飯を食べた時は口に合わず困った」

 父は著名な民族主義指導者・夢陽呂運亨先生と行動をともにした愛国者崔鉉氏。ソウル中央高等学校を経て上海に留学、その後上海臨時政府の機関紙「独立新報」の主筆の重責を担った。母・崔聖三さんも梨花堂(現・梨花女子大学)を出た近代女性。郡の顧問として働く傍ら、日本帝国主義によって、投獄された夫の代わりに、家を守り、子どもたちをたくましく育てた母だった。

 いわれなく押し寄せてきた「皇軍」を追い払うために内外で命を賭して戦った独立闘士たち。父もまた、上海の呂運亨先生のもとで、植民地支配に抗い続けた一人だった。

 「私はまだ、幼かったが、上海の当時の雰囲気や父が英語を流暢に話したことなどをよく覚えている。金奎植、安昌浩、申采浩などの名前はよく聞いた。29年、呂運亨先生が上海で日本警察に逮捕され、朝鮮に連行された時、父も新義州の刑務所に投獄された。この事件をきっかけに家族で故郷・平安北道雲山郡城面に帰ることになった」

 初めて見る祖国。父は自作農の、経済的には恵まれた家庭で育った。父が出獄するまで、家族は日本巡査の厳しい監視下に置かれていた。「秋になると裏山に榛やツルバの木の実を取りに行き、貯蔵して、おやつ作りに励んだり、たきぎ拾いに行ったり。紅葉の美しさと冬の水墨画のような景色が今も目に焼きついている」。31年、雲山小学校に入学。この年、満州事変が勃発、朝鮮の民は日本統治下でますます困窮を極め、口では言えぬ暴力と辱めを受けていた。

 「村でも普通小学校に入学したのは、私一人。ほとんどの子どもは書堂に顔を出すのがせいぜい。ましてや、女の子に教育させる家はなかった」

 出獄した父から買ってもらったピカピカのランドセルを背負って、真新しい革靴を履いて学校に通う康さんを、村中の人たちが好奇な目で見つめていた。「学校でよく革靴を隠されたり、踏みつけられたりしたので、靴を袋に入れ背負って勉強したこともある」。

 36年、平安北道のキリスト教系の宣川保聖女学校に入学、鐘撞きなどのアルバイトで学費免除を受けながら卒業。「ここでピアノやリズム体操などをみっちり習い、スポーツの楽しさを味わった。全寮制のため、シラミにも悩まされた」

 卒業後、長津三浦里国民学校教師として3年を過ごしたが、勉学の夢断ちがたく、43年に梨花女子大専門部に入学、解放の年の3月に卒業した。

 その後、ソウル外国語大学に合格したが、4男4女の長女の康さんは弟たちの進学のために勉学を諦めざるをえなかった。

電気拷問まで

 祖国の解放。風雲急を告げる時局。呂運亨先生は46年10月、平壌を劇的に訪れ、金日成将軍と会談した。しかし、呂先生は翌年7月ソウルの恵化洞ロータリー付近で、狂信的なテロリスト韓智根の凶弾に倒れた。すでに南朝鮮労働党財政部に職を得ていた康さんは、米軍政とかいらいの手によって逮捕され、電気拷問まで受けた。「徹底的に敵視された私たち家族は地下活動に転じ、翌年、同志と結婚した私は日本へ、ソウルの西大門刑務所に収鑑されていた両親は朝鮮戦争勃発と同時に人民軍に救出され、入北したのです」。

 すぐ下の弟・崔輪さんは金日成将軍の直接の指示の下、モスクワに留学、高分子化学を学び、後に咸興化学ビナロン工場で李升基博士と共に働き、祖国の軽工業発展に尽くした。

 康さんは日本に来てからも、運動に身を捧げた。4人の子どもを育てながら、60年に女性同盟豊島支部副委員長に、64年には同新宿支部副委員長に就任。夫との離別など決して順風満帆ではなかった私生活。そのすべてを胸に収めた、前向きで人に頼らぬ生き方は、地域の同胞女性たちの共感を呼ぶ。(朴日粉記者)

[朝鮮新報 2004.8.30]