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くらしの周辺−「加害」と「被害」の意識

 「雨ニモ負ケズ風ニモ負ケズ」とはいかないが、ほぼ毎日自転車通勤をしている。健康や節約のためでもあるが、東京は坂道が多いので所謂「ママチャリ」ながらも風をきって走ること自体が結構心地良い。

 しかしその心地良い自転車乗りにも1つだけ難点が生じることがある。例えば、歩道を自転車で走っていると前にグループの通行人が歩いている、とする。しかも横に広がって歩きながらのおしゃべりに夢中で、彼らは後ろに気が回っていない。

 もちろん歩道に少しでも横幅があれば迂回できるのだが、大抵自転車が駐輪されていたり、電信柱が突き出していたりで、彼らが「人間版進入禁止表示」になって進めない。そこで「チャリンチャリン」とベルを鳴らす。

 通行人たちが後ろを振り返り、仕方なく少しの隙間をつくる。彼らとの間の「一瞬の緊張感」を押しのけて、私は自転車を進めていく。

 経験上、後ろを振り向いた時の彼らの表情には、「前進を邪魔してスイマセン」ではなく、「楽しいおしゃべりの時間を邪魔するな!」という、「被害者」の雰囲気が露骨だ。おしゃべりを一時中断させたことが被「害」なのか? 歩道を横一杯占領することは加「害」ではないのか? 自分の「加害」を振り返ることなく「被害」を言い立てることでのみ自己主張しようとする彼らの表情には嫌気がさす。日本の戦争被害のみを展示する某博物館とそれを容認する日本の社会的雰囲気を連想してしまうからだ。

 とは言え、風を切る心地よさを味わいたくて今日も自転車に乗っている私である。(李東一、団体職員)

[朝鮮新報 2004.8.30]