朝鮮学校を訪ねて−南の童話作家、リ・ソニ |
「韓国」の童話作家リ・ソニさんが、豊橋朝鮮初級学校を訪問した感想文が南朝鮮の月刊誌「大切なあなた」6月号に掲載された。この文は、わが子宛てに綴った手紙形式で書かれている。抄訳は次の通り。 民族の魂守った 朝鮮学校は、日本で朝鮮語と朝鮮の歴史を教える、珍しい島の分校のような学校。日本政府の補助ももらえない、学歴も社会的に認められず、父母と同胞達の力で作られた学校、日本で住んでいても、朝鮮人の魂を守るために言葉と歴史は、自分達が教えなくちゃならないとの思いで作られた学校なの。日本は「韓国」を認めているけど、北朝鮮を認めていない。この学校は、南よりも北朝鮮の理念で運営する学校だとして、日本政府は認めないのだ。運営資金が足りなくて教員の月給も遅れがち、教育環境も不充分だし、生徒も減りがちという厳しい状況にある。朝鮮 総連を知っているかな? 朝鮮半島の分断は、日本で生きる同胞を北を支持する総連と南を支持する民団とに分け隔てることになった。だから以前は、この総連系の人を共産主義者とか、スパイだと認識していたのだ。思想教育の影響で、オンマもこの人達には頭に角がある「別種」だと思っていた。 だけどここの人たちは、北だけを支持するというより、南北の全てを含めた「一つの祖国」を願う人たちだった。日本に暮らす同胞たちは、もともと、解放直後は一つの団体に属していた。しかし1960年代、日本と「韓国」が協定を結ぶと「朝鮮は一つなのに何故、片方だけと、それも屈辱的な協定を結ぶのか」と、反対した人たちが 総連系として現在に至った。もちろん、共産主義的な考えの持ち主もいるけど多くの人は理念には拘らずに、ただ「統一祖国」を願っている理由で「韓国」と日本の「敵」として見なされたのだった。 数人の老人とお話しする機会があったが、故郷は慶尚道、忠清道だった。 総連の所属ゆえに「韓国」の故郷にも行けないでいる。生活も豊かになり「故郷に一度でもいいから行く事が夢」と語る方がいた。慶尚道出身のおじいさんは、自身が総連でいつづけるのは、一種の「義理」のためだと仰っていた。私たちは外国で暮らす同胞達に目を向けなかったけど北は違っていた。 「日本で大変な苦労をした。南は我らを構ってくれなかったが、北の祖国の金日成将軍が外国で暮らしても子ども達は朝鮮人の気概を忘れてはならないと語り、山河の動植物標本と書籍を送ってくださった。ありがたかった。苦しいときに助けていただくと、その恩を忘れられない。そうじゃないですか? だから今、北が苦しいからと言って、背を向けるわけにはいかないんだよ」 血と祖国は一つ 学校見学の道すがら日本の小学校、高校を通りかかると、それは大きくてすてきな建物だった。高校は植物園のように見えた。だけど朝鮮学校は、住宅街の中に位置する手のひらのような運動場に遊具の少ないとても小さな学校だった。幼稚園児、初級部の児童まで合わせて44人。 「悪い朝鮮の奴らの学校だ」とガラス窓を割るような人もいるんだって。チマチョゴリを着て歩くとチマを切りつけるなどの悪行を働く人がいて、思い通りに服も着れない事もあるようだ。 子ども達の歓迎はとても温かいものだった。幼稚園児、初級部児童達が、先生と共に統一旗を振りながら小さな運動場で整列して、幼稚園児がストローで作った首飾りと花一輪をオンマたちは受け取ったの。 学父母たちが作った料理を囲み講堂では歓迎会が行われた。宴会は盛り上がり、のど自慢、料理とお酒で語り合い楽しさに酔い、酒に酔い、踊って歌って「われらはみなひとつ」と感じるようになったの。 オンマが考えるには、苦労が多い中でも子ども達を日本人ではない、民族の子ども、われらの子どもに育てようとする、彼らの情熱と料理に込められた客をもてなす真心、子ども達の純粋な目の輝きに感動を覚えた。「思想と理念でわかれていても、血と祖国は一つだし解かり合える」このような思いを、参加者みなが共有することができた。 オンマはここの学父母たちを見ながら一つの気持ちで分け合い、助け合う初代教会信者達の姿を思い出した。迫害を受けた苦しい中でも、かれらは、自身の物、他人の物を区別する事なく全てを分け合った。 このような事から、人は志向が同じなら苦境、逆境の中でも一つの心で団結できるのだ。「迫害を受ける人に福がある。神様の国が彼らのもの」この聖書の部分を理解できなかったけれど、この瞬間だけはわかったような気分だった。 [朝鮮新報 2004.9.1] |