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〈本の紹介〉 安心のファシズム

 本書を読み進んで行くうちに60年代の後半、激しさを増すベトナム戦争において、日本がその米国の兵站、出撃基地と化し、さらに同盟国として踏み込んで行こうとしていた時代、亡羊とした不安に駆られながら読んだカフカの「変身」や「審判」「城砦」など一連の作品が頭にこびりついて離れなくなってしまった。

 熱心に読みこんだわけでもなかったが、朝、目を覚ましたら虫に変わり果てていた主人公の「驚き」に、もしこうしたことが物語でなく正夢であったら、と、息が詰まるような不安を覚えたこと(「変身」)や、誰が何を裁こうとしているのか―、顔の見えない相手からの呼び出しに、カフカの生きた時代とナチスが台頭していくドイツの状況に思いを馳せたこと(「審判」)などが重なり合ってしまった。

 多分に本書の「安心のファシズム」という題名から、「なぜファシズムが安心なのか」とアンチテーゼ的に、逆説的にそのことを問い詰めた結果なのかも知れない。

 本書は、「イラク人質事件と銃後の思想」「自動改札機と携帯電話」「自由からの逃走」「監視カメラの心理学」「社会ダーウィニズムと服従の論理」「安心のファシズム」の6章から構成されているが、筆者が一見、異なるテーマを通じて追求しているのは、なぜ多くの現代人は利便性を欲っする余り、その結果として権力のほしいままになっている自身に気がつかないのか、ということである。つまりは、その問いが各章に共通する問題提起なのである。

 日本の国民の8割近くが所持する携帯電話。著書はこう書く。

 「ケータイは人々の観念で成立しているわけではないことが忘れられてはならない、と思う。サイバネティクスと同様に、国家や多国籍企業のような巨大な存在でなければ運用し得ない」

 そして「ケータイの本質とは、個々人の巨大システムへの同調、随順に収斂するのではあるまいか」というドキッとさせられる指摘をする。もうすでに実用化が進められているが、20センチほどの小さな物体に財布、カード、家のキーなどありとあらゆるものが詰め込まれて行く。そしてその携帯は国家、多国籍企業によって独占、支配され、結果的に私たちの生活は瞬時にして権力の掌中に収められてしまうことになる。

 利便性の追求と表裏一体の権力による支配―こんなことは誰もが気づかなかったことである。まさに「安心のファシズム」である。

 著者はこれまでにも(本書でも取り上げられているが)、言葉の暴力を売り物にするインテリジェンスというものとはほど遠い石原都知事を取り上げた「空疎な小皇帝」などを送り出してきた。日常生活から見据えた作業だった。そうした視点を持ち、積み重ねていくことが「安心のファシズム」から決別する道であることを本書は教えてくれている。(斎藤貴男著)(厳正彦記者)

[朝鮮新報 2004.9.6]