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〈高句麗史は中国史の一部か−上−〉 掌で空を覆うことはできない

徳興里古墳壁画の「幽州13郡太守」

 2004年7月1日、中国の蘇州において、ユネスコ世界遺産委員会が朝鮮の平壌市をはじめとする、各地の高句麗壁画古墳63基と、中国東北地方の桓仁市、集安市の高句麗の都城や墳墓群を、世界遺産として登録した。このことは、ただちに世界各地に打電されたのであるが、その時、私を驚かしたのは新華社の記事である。それによれば、高句麗の最初の都城・桓仁の五女山城と、第2回目の都・集安の国内城と丸都山城や将軍塚、太王陵と壁画古墳群、そして、高句麗の金石文としてはもっとも古い広開土王陵碑などは、中国の「東北地方の少数民族が建てた地方政権である高句麗の遺跡」であると断定された。

 こうした断定は、すでに「中国史の一部に転落させられない」と題して、高句麗を「我々の代で単なる中国の辺境に転落させるわけにはいかない」と論じた、昨年11月27日付の東亜日報などの社説、論説による、激しい批判と憤激と非難を呼び起こすことになった。

 高句麗とその歴史を中国の地方政権とし、その地方史とすることは、中国側の古文献を含む、数多くの文献資料と考古学上のおびただしい遺跡、遺物、金石文などの厖大な考古学の資料に照らして、明らかに過ちである。とくに東北アジアの古代、中世史、国際関係史、なかんずく中国中央政権と地方政権、いわゆる満州諸族と高句麗との関係史の変造となる。このような造作と牽強付会は、高句麗の建国過程と文化と信仰、社会、政治制度、生活様式と慣習における、独自性を無視することと連動せざるをえない。

 集安の広開土王陵碑は414年、子の長寿王によって建立された。広開土王(好太王)と長寿王の時期は、高句麗の最盛期に築かれた時代である。広開土王陵碑には、始祖王である朱蒙の誕生説話と今日の遼寧省桓仁での高句麗建国と、その過程の建国神話を記している。これは、高句麗特有の建国説話であって、ほかに例を見ないが、5世紀前半の高句麗壁画古墳である集安の牟頭婁塚に書かれた墨書には、同じ朱蒙説話が記されている。私は、広開土王陵碑が伝える高句麗建国神話が、中国の6世紀の史書である「魏書」高句麗伝に伝承されていることに注目したい。それには高句麗の始祖王の誕生と、桓仁での高句麗の建国を、生き生きと伝えている。この建国とは、地方種族、部族長の支配権の樹立ではなく、国家の誕生である。

 この「魏書」高句麗伝の記載は、7世紀中頃の中国の正史である「周書」、「隋書」、「北史」には正しく抜粋されている。ただ「北史」だけは、矛盾、混乱した記述となっている。

 朱蒙によって樹立された、高句麗最初の都・桓仁と第2の都・集安、そして鴨緑江をはさんだ対岸の慈江道や第3の都・平壌をはじめとする、北部朝鮮には、高句麗特有の墓制である、おびただしい数の積石塚が集中的に築造されている。この積石塚の発展過程から、独特の石室封土墳が創出された。さらには、この石室封土墳の中から、壁画古墳が生まれたのである。

 このような独特な墓制をもつ高句麗国家は、中国や周辺諸族とさまざまな関係を持った。具体例として「5胡16国の抗争」と関わって見てみよう。中国晋末の304年から、南北朝の興る431年頃までの5胡が建てた16国の激烈な内乱と抗争の時代であった。この大混乱と抗争に登場したのは、漢、匈奴、鮮卑、羌、氐の5胡の諸族による16国である。

 しかし、高句麗の名が見えない。高句麗は、東北アジアの国際関係の中で位置づけなければならない。高句麗は、広開土王の国家年号である「永楽18年」(409年)築造の、徳興里壁画古墳の墨書が語るように「5胡16国」の大混乱を利用して、北中国に侵攻した。高句麗は、長年の宿敵である前燕を前秦と結んで倒し、高句麗の幽州(北京付近)を設置した。事実は、高句麗は強大な国家であり、中国の地方政権ではない。掌によって空を覆うことはできない。(林準、考古学・古代史研究者)

[朝鮮新報 2004.9.7]