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〈朝鮮歴史民俗の旅〉 契(1)

 農民はいつの時代も、米を作って国を支えながらも、生活苦を強いられていた。農民を苦しめたのは税金であり地代であった。税金は官吏がまきあげ、地代は地主が搾り取っていた。保護すべき政府は無能無策であったので、農民には自らを守るための自衛の策が必要であった。

 日本には古い時代から講という組織があった。一定の講員が寄り合って懇親し、共同飲食する社会集団のことである。その機能の上から信仰的なものと経済的なものとに大別されるが、経済的なものは頼母子講とも呼ばれている。どちらも親ぼくと相互扶助を目的に作られた集団である。 

 日本の講に似た契と呼ばれる組織が朝鮮にもあった。契とは、読んで字のごとく契りをむすぶこと。つまり、共通の利害を持つ人々が、一つの約束のもとに集まって、信頼し共に利益を得ようと作られた集団である。この契こそ農民自衛のための組織であった。

 契の歴史は古く朝鮮三国時代にまでさかのぼる。当時、三国においては、同族のよしみから、共同労働、共同祭礼、共同飲食の風習があった。共同で行う事業や行事のなかから契が発生したものとみられる。記録上はじめて契の文字が現われるのは新羅景徳王(742〜764年)の時代で、「三国遺事」は「万一のことを期して契を行った」と記録している。

 契は高麗の時代になってより盛んに行われ、同年者間では「同甲契」、同族間では「同族契」が結ばれ、両班のなかでは、文臣と武臣間の反目をなくし親ぼくをはかる目的で「文武契」が作られていた。

 新羅と高麗の時代には、契とは異なる宝という扶助利益集団が、宮中と寺院を中心に営まれていた。基本財源は宮中と寺院への寄付金、土地、穀物などで、それらを効率良く処理、管理することによって、その利益を社会的事業や災害復興に廻すものであった。新羅の「占察宝」、「功徳宝」、高麗の「済危宝」、「常平宝」、「広学宝」などがそのような組織であった。

 宝は契に似た性格を持っていたが、契が共同社会に根ざしていたのに対して、宝は資本の供給を主眼においた利益社会的組織であった。そして、朝鮮王朝のもとで契は宝の性格を積極的に取り入れ、親ぼく集団であると同時に農民など庶民の扶助利益集団となって、社会に大きく貢献することとなる。

 朝鮮王朝の中期、日本の豊臣秀吉と中国の清のたび重なる侵略によって、国家財政は破たんし、両班官僚の過酷な収奪で庶民は塗炭の苦しみを強いられていた。この国難に際し契はその存在を大いにアピールしていた。民間資本でありながら、契は利殖を生んで農民を助けていたし、さらには国家を破たんから救い、再生への活路を開いていったのである。

 朝鮮人と日本人に「個」と「和」をあてて、その気質の特徴を説明する比較文化論がある。

 朝鮮人に「個」をあて、個人主義、利己主義が際立ち、個人としてはすぐれているが団結心に欠けるというもの。逆に、「和」の日本人は、個人レベルでも国家レベルでも協調性とまとまりがあり、これが物事を進める原動力になっているという。日本人の協調性については自他ともに認めるところだが、朝鮮人を個人主義、利己主義と決め付けるのは誤った見方である。

 19世紀に朝鮮で布教活動を行っていたフランス人宣教師が見聞記を書いている。彼は契に現れる朝鮮人の集団意識に驚きを隠さなかった。

 「部落ごとに小さな共同体を形成しており、すべての家が例外なく協力しなければならない共同募金もある。宗廟や祀堂守り、宮中の門番や警護人、あるいは召使などのあらゆる下人、ひと口にいって、同じ種類の仕事や共通の利害を持った人々はすべて、自分たちだけの厳密な意味で労働者の組合に似た協同組合やあるいは団体を形成している」

 朝鮮王朝時代にいろいろな種類の契が社会に根づいていた。規模と目的によって組織のあり方も異なり、契員の数も大小さまざまであった。契員が百人という大規模の契では、契長が頭領となって、金銭の出納や財産の管理に「有司」、「色掌」、「執事」といった会計、財務員を当てた。

 契員は強制ではなく自主的に参加した。一定の金銭か穀物、あるいは労働で出資し、「有司」はこれらを集めて土地の購入や資金の貸付などの方法で利息を生んだ。配分は均等でくじ引きなどの方法で受けとった。

 契のこのようなシステムは日本の頼母子講とほぼ共通であったが、頼母子講との違いは、契が地域社会を単位とし、地域社会と深くかかわっていたことにある。

 契は地方の行政単位である邑、面、里、洞の住民たちによって組織されていた。住民はすべて契員であったから、契は各家庭の扶助とともに地域社会の発展に寄与するものであった。朝鮮王朝時代、地域の道路、橋梁、衛生、教育など公共の事業は、ほとんど契の出資でまかなわれていたといっても過言ではない。公共事業ばかりではない。軍布契や戸布契なども組織し、国から軍役の召集があれば、軍役免除税を払って住民たちを兵役から守ったのである。(朴禮緒、朝鮮大学校文学歴史学部非常勤講師)

[朝鮮新報 2004.9.11]