〈高句麗史は中国史の一部か−下−〉 豊かな1000年の王国、高句麗 |
高句麗によって倒された前燕は、高句麗の隣国であるが、5胡16国の一つであり、中国の地方政権である。高句麗・燕関係も、東北アジアの関係史の中で正しく位置づけなければならない。このような視点からみるならば、高句麗−隋戦争、高句麗−唐戦争の本質と性格は明々白々となろう。漢と鮮卑族による南北朝の大乱を制して、中国を統一した隋は、隣国高句麗に対して、598年の第1次、612年の第2次、613年の第3次と、3回にわたる対外侵略を敢行して惨敗した。結局618年、隋は農民反乱の中で滅亡した。 隋に代わって中国に君臨したのは唐である。645年、唐の皇帝太宗は「詔書」を送って臣属することを高句麗に要求したが拒否された。太宗の直接指揮のもとに、唐軍の精鋭は高句麗に侵攻し、遼河流域において激戦を展開したが、最後の壮絶な安市城の決戦において、破れ敗走した。唐による647年から648年にかけての、再度の高句麗侵攻は、遼河の渡河と、山東半島から鴨緑江の入り口への攻撃であった。しかし、この侵攻も敗退におわった。唐はこの頃、高句麗支配層内部において生じた、深刻な紛争と対立、背信、分裂に乗じて、高句麗と対立していた新羅と組んで、高句麗に対する攻撃を開始した。668年、唐の50万の侵攻軍と新羅軍によって、平壌城は落城し、高句麗は滅びた。その後の朝鮮歴史は、高句麗を継承した渤海と新羅を軸にして展開した。 しかし銘記すべきは、東北アジアにおいて、隋、唐と覇権を争った高句麗が、その千年の王国史の中で、中国の地方政権となったことは一度もなかったことである。隋、唐軍を敗走させた要因は、高句麗山城に拠って戦った、高句麗軍民の民族の気概と、崇高な自己犠牲によるものであった。注目されるのは、重要な拠点地の山々の峰を石築の城壁で楕円形に結んだ、独特な高句麗山城の強固で綿密な防衛システムである。遼寧省の鳳凰山城(烏骨城)、白厳城、安市城などによる戦いは、これを立証している。 こうした高句麗国家の在り方は、高句麗王都の特徴にも反映されている。王都は、山城と前方平地の都城のセットから成っている。最初の都・桓仁には、五女山城と、下古城子土城、第2番目の都・集安には、山城子山城(慰那厳城)と通溝城(国内城)、第3番目の都・平壌には、大城山城と安鶴宮が造営された。戦時の時は、王たちは郡民と共に山城に入り、平時の時は、王たちは、平地城か王宮に入って暮らした。このように、国家と国都の厳然たる存在様式をもつ高句麗は、中国東北地方の少数民族による地方政権とはまったく異なる。 高句麗の人々は、部屋の外で靴を脱ぎ、オンドル部屋でゆったりと座って暮らすなど、中国諸族とは異なる生活様式と慣習、風俗文化を持ち、それを豊かにしてきた。中国の史家に聞きたい。高句麗は、中国少数民族の地方政権であるというのは史実なのか。(林準、考古学・古代史研究者) [朝鮮新報 2004.9.13] |